透明資産を見つけよう

【透明資産を見つけよう】五月の風薫る昼下がりの花屋。バケツに揃う「茎の規律」と、花束を手渡す所作という名の「贈り物への礼節」

承知しました。今回は五月の昼下がりを舞台に、潤いに満ちた空気感が、たった五輪の花を通して家族の食卓まで届く——という流れを描きました。


五月の半ばを少し過ぎた、ある木曜日の昼下がり、午後二時過ぎ。

街路樹の若葉が、その日いちばんの濃さに染まり、初夏のやわらかな風が、街全体を、ふわりと、しかし確かに、緑の匂いで満たし始めた、ちょうどその時刻。

私は、午前中の打ち合わせを早めに切り上げ、夕方の予定までの、ぽっかりと空いた一時間ほどを抱えながら、いつもの大通りから、ふと、一本だけ路地の方へと折れる、そんな心持ちで、革靴の踵を、初夏のアスファルトに、ゆっくりと、静かに、響かせていました。

——その日、私が、花屋に立ち寄ろうと思った、はっきりとした理由は、何ひとつ、ありませんでした。

ただ、その日の朝、家を出る時、同居している家族の何気ない後ろ姿を、ふと、長く見送った、そのほんの数秒間の感覚が、なぜか、午前中の会議の合間にも、移動の電車の中でも、私の心の片隅で、静かに、しかし確かに、淡い色のまま、揺れ続けていたのです。

そして、その淡い色が、私の足を、いつもとは違う路地へと、自然と、運んでいた——そういうことだったのかもしれません。

路地に入ってすぐの、ちょうど三軒目あたり。

私は、店先のアスファルトが、たった今、たっぷりと打ち水をされたかのように、ほんのりと黒く、しっとりと、湿っている、ある一軒の小さな花屋の前に、立っていました。

入口には、扉らしい扉もなく、ただ、風通しの良い、開け放たれた間口が、あるだけ。

そして、その間口の両脇に、バケツに活けられた色とりどりの初夏の花々が、店先の、ほんの一メートルほどの幅の中で、まるで、絵筆で描かれたばかりの一枚の油絵のように、整然と、しかし呼吸とともに、静かに、揺れていました。

私は、ゆっくりと、その間口の前で、足を、止めました。

そして、店内へと、一歩、足を踏み入れた、その瞬間。

私を包み込んだのは、初夏の街の表通りの、わずかに乾いた風の中とは、まったく違う、深く、しっとりと、潤いを含んだ、ある、生命そのものの匂いを溶かし込んだ、ひとつの「空気」でした。

スカスカと乾いた表通りの空気が、店の中の、潤いに満ちた空気の手前で、ふっ、と、立ち止まる。

そして、店の中の、しっとりとした空気のほうから、私の身体に、ゆっくりと、優しく、寄り添ってくるのです。

——空気の湿度ひとつで、ここまで、人の身体の入り方が、変わる。

そう感じた瞬間、私は、まだ、店主とも、一輪の花とも、何の言葉も交わしていないにもかかわらず、すでに、この花屋の主人が、毎朝、毎昼、毎夕、繰り返し、丁寧に磨き上げてきた、ある、しっとりとした「場の空気感」の、その奥行きの、ほんの入口に、確かに、足を踏み入れていることを、感じ取っていたのです。

そこには、贈り手の心と、贈られる相手の心、その二つの心の、決して言葉にはならない、しかし確かに在る、繊細な揺らぎを、ほんの一輪の花の中に、静かに封じ込めるための、極めて謙虚で、しかし揺るぎない「規律」が、確かに、潤いとともに、息づいていたのです。

「いらっしゃいませ。どうぞ、ごゆっくり、ご覧ください」

奥の作業台の上で、白い前掛けに身を包んだ、四十代後半ほどの女性店主が、視線を上げ、しかし、決して、こちらに歩み寄ることなく、たった一度だけ、深く、頷きました。

その「歩み寄らない」という所作の奥にこそ、私は、何かを、感じました。

これは、お客様が、まだ、何を選びたいのか、自分自身でも分かっていないかもしれない、その、淡く、揺らぐような心の状態を、決して、急がせない——という、店主の、無言の、しかし確かな、慎ましさだったのです。

そして、その慎ましさが、店内に、ふわり、と、もうひとつの、心地よい空気感の層を、静かに、重ねていったのです。

私は、店の中ほどに、ゆっくりと、足を進めながら、左右に並ぶバケツを、見渡しました。

そして、そこで、初めて、私は、息を、深く、飲んだのです。

——花の茎の長さが、すべて、揃っている。

バケツごとに、活けられている花々の、その水面から立ち上がる茎の長さが、見事なまでに、寸分違わず、ぴたりと、一直線に、揃っているのです。

ピンクの芍薬。 深紫の鉄線。 白い百合の蕾。 青紫の翁草。 黄色の薔薇の蕾。

種類も、色も、香りも、まったく違うこれらの花々が、それぞれのバケツの中で、まるで、誰かが、一輪一輪、定規を当てて、揃え直したかのような、絶妙な高さで、潤いの空気の中に、静かに、佇んでいる。

これは、ただの「陳列の工夫」では、ありませんでした。

これは、お客様が、店内を、ぐるりと、見渡したそのときに、視線が、どの一輪にも引っかからず、すうっ、と、滑らかに、店内の最も奥のバケツの一輪まで、届くように——、設計された、視覚そのものの、ひとつの「規律」だったのです。

——茎の長さが、揃っているから、お客様の心の中までも、整い始める。

私は、革靴のまま、ゆっくりと、店の真ん中に、立ちました。

すでに、私の身体は、ここに入る前と、明らかに、変わっていました。

肩から、ふっ、と、力が抜けていく。 午前中までの、いくつもの会議の喧騒が、なぜか、ふっと、遠くへ、引いていく。 そして、家を出る時の、家族の後ろ姿を見送った、その淡い色が、私の心の中で、ほんのわずかに、はっきりとした、ひとつの色を、取り戻し始めていく。

これこそが、私の名づける「茎の規律」でした。

そして、私は、自分でも気づかぬうちに、左から二つ目のバケツの、淡いピンクの芍薬の前に、立ち止まっていました。

「こちらの芍薬で、よろしゅうございますか」

店主は、私が、芍薬の前で、たった三秒ほど、立ち止まった、その瞬間を、決して、見逃しませんでした。

しかし、その問いかけの声には、押し売りの気配は、いっさい、ありませんでした。

ただ、お客様の、まだ、自分でも気づいていないかもしれない、その、淡い心の傾きを、無言のうちに、丁寧に、すくい上げる、ある、深い、確かな、観察の声でした。

私は、ゆっくりと、頷きました。

「五本ほど、お願いします。家の食卓に飾るための、控えめな束で」

店主は、深く、頷きました。

そして、ここから先の、ほんの数分間。

私は、これまで生きてきた中で、最も静かで、最も整然とした、「花を包む所作」を、目撃することになったのです。

店主は、まず、芍薬を一輪、両手で、低く、捧げ持ちながら、店の奥の、白木の作業台の上に、そっと、横たえました。

その置き方の、なんと、優しいことか。

茎を、机の上に、ぶつけない。 花弁を、決して、机の角で、傷つけない。 そして、花の重みが、白木の作業台に伝わる、その最後の一瞬に、ふっ、と、両手の指先の力を、抜きながら。

そして、続いて、二輪、三輪、四輪、五輪と、まるで、眠っている赤ん坊たちを、順番に、寝かしつけるかのような優しさで、芍薬を、白木の作業台の上に、寄り添わせていったのです。

そして、五輪の芍薬の、それぞれの花の向きが、ばらばらにならないように、店主の指先は、ほんのわずかに、しかし確かに、一輪、一輪の、首の角度を、整え直していきました。

——五本の芍薬、それぞれの「顔の向き」を、揃える。

これは、ただの「整え」では、ありませんでした。

これは、この花束を、家に持ち帰り、食卓の上に飾った、その瞬間に、家族の誰の目から見ても、五輪の花が、ばらばらに咲いているのではなく、まるで、ひとつの家族のように、互いを向き合い、寄り添い合って、咲いて見えるように——、設計された、「贈った先の食卓の、空気感そのものへの、配慮」だったのです。

そして、店主は、薄い和紙のような、淡いベージュの包み紙を、両手で広げ、五輪の芍薬を、まるで、生まれたての赤ん坊を、産着で包むかのような、深い慎みをもって、ふわりと、ふわりと、包んでいきました。

最後に、麻紐を、二度だけ、しかし、緩すぎず、きつすぎない、ある「ちょうど」の力で、結びました。

そして、店主は、その花束を、両手で、低く、捧げ持ち、私の前まで、ゆっくりと、運んできました。

そして、私の前で——。

私は、店主の、最後の所作に、息を、深く、深く、飲んだのです。

店主は、その花束を、私に、差し出した、のでは、ありませんでした。

——差し出した、のではなく、「託した」のです。

両手で、花束の、ちょうど芍薬の首のすぐ下のあたりを、しっかりと支え、私の両手のひらに、ゆっくりと、その重みを、移していく。

そして、私の両手のひらが、確かに、花束の重みを、受け止めた、その瞬間、店主は、ようやく、自分の指先の力を、ゆっくりと、抜いていったのです。

——重みの受け渡しの、その瞬間が、限りなく、長かった。

これは、まだ、見ぬ、家族の誰かの、食卓に届くであろう、五輪の芍薬を、私という、ただの一介の運び手に、確かに、お預けする、という、店主の、無言の、しかし、極めて深い、敬意でした。

「ありがとうございます。今夜、きっと、きれいに、咲いてくれますね」

店主の声は、店の中の、しっとりとした空気感を、わずかにも、揺らさない、絶妙な響きでした。

——これが、「贈り物への礼節」でした。

そして、この所作こそが、芍薬という、たった五輪の花の中に、店主の、その日一日分の、心の慎みのすべてを、確かに、封じ込めて、私の手のひらの中に、移し替えてくれていたのです。

私は、両手で、その花束を、低く、捧げ持ったまま、店を、後にしました。

間口を、また、ゆっくりとくぐり、初夏の路地の、わずかに乾いた風の中に、再び、戻った、その瞬間——。

私の手の中の、五輪の芍薬は、まだ、店内の、潤いに満ちた、しっとりとした空気感を、その花弁の中に、確かに、抱きしめたままでした。

そして、夕方、家の食卓の上で、この花束を、ほどいた、その瞬間に、その「店の空気感」は、再び、ふわり、と、家の食卓の上に、立ち上がるのでしょう。

——五輪の花は、ただの植物では、ありません。 ——五輪の花は、店主の、毎日、毎日、誰にも見えないところで、丁寧に磨き上げてきた、その「心地よい空気感」そのものを、贈る相手の食卓まで、運ぶ、最も静かな、運び手だったのです。

空気感は、確かに、目には、見えません。 しかし、空気感は、たった五輪の芍薬の中にすら、こうして、確かに、封じ込められ、運ばれ、そして、贈った先の家族の、その夜の、空気感までも、優しく、しかし確かに、変えていく。

——これこそが、最も静かで、最も深い、「空気感の影響力」でした。

そして、この影響力こそが、看板にも、メニューにも、決して書かれることのない、花屋という店の、最も深い「透明な資産」だったのだと——。

私は、初夏の風が、ふわり、と、芍薬の花弁を撫でていく、その路地の中で、ようやく、気づいたのです。

——勝田耕司

関連記事

  1. 透明資産とは?

    【透明資産を見つけた】カフェの「当たり前」から見えた、業績を左右する“空気”の正体

    カフェの「当たり前」から見えた、業績を左右する“空気”の正体先…

  2. 透明資産とは?

    【透明資産を見つけよう】会議開始5分前の空気に、組織の実力はすべて出ている

    会議開始5分前の空気に、組織の実力はすべて出ているカフェでコー…

  3. 透明資産を見つけよう

    【透明資産を見つけよう】雨宿りの喫茶店で、私は「無音の対話」を聴いた

    アスファルトが熱を帯びたまま、暴力的な夕立に打たれていた。六月の湿…

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

  1. 透明資産とは?

    7年前から取り組んだ顧客との信頼関係構築が 「餃子の王将」にとって最大の透明資産…
  2. 透明資産とは?

    「トリキバーガー」の高い完成度は鳥貴族ならではの透明資産が生んだ
  3. 透明資産とは?

    鳥貴族の新業態「トリキバーガー」に 感じる、この会社ならではの透明資産
  4. 透明資産とは?

    【透明資産を見つけよう】ブランドを育てる『空気感』の持続戦略5つの連鎖とは?
  5. 透明資産とは?

    【透明資産をみつけよう】老舗企業に学ぶ『7つの透明資産の調和術』~時代を超えて愛…
PAGE TOP