透明資産を見つけよう

【透明資産を見つけよう】晩秋の夜更け、路地裏のカウンターバー。氷柱が刻む「透明の規律」と、グラスを置く所作という名の「夜への礼節」

晩秋の夜風が、ふと、コートの襟元から忍び込んでくるようになった、十一月の半ばの、ある火曜日の、夜十時過ぎ。

最後の打ち合わせを、ようやく一段落させた私は、馴染みの繁華街から一本、また一本と、人通りの少ない路地へと、なぜかいつもよりも、深く、静かに、入り込んでいきたいような夜の心持ちで、革靴の踵を、湿った石畳に、規則正しく、響かせていました。

そして、もう何度目かの曲がり角を曲がった、その先の、ほとんど誰も歩いていない細い路地の、ちょうど真ん中あたり。

私は、ある一軒の、ごく小さな店の、看板にも灯りにもならない、ただ一枚の真鍮のプレートが、街灯のわずかな光を受けて、ひっそりと、しかし確かに、橙色に光っているのを、見つけたのです。

そのプレートには、店の名前が、極小の文字で、たった一行、刻まれていました。

私は、なぜか、その重そうな、無垢の樫材の扉に、自然と、そっと、手をかけていました。

扉が、長年使い込まれた金具の、低い、しかし澄んだ音を立てて、ゆっくりと内側に開いた、その瞬間。

私を包み込んだのは、冷えた夜気の中に、わずかに溶け込んだ、熟成した木の樽の、深く、甘い、しかしどこか凛とした香りと、店全体に張りつめた、まるで深い森の奥の池の水面のような、ある澄み切った空気の重みでした。

そこには、ほんの数時間、ひとりの客の夜を、確かに「特別な、たった一夜」として、預からせていただくための、極めて謙虚で、しかし揺るぎない「規律」が、確かに、息づいていたのです。

「いらっしゃいませ。お一人様、でしょうか」

カウンターの内側で、グラスを磨いていた、白いシャツに黒いベスト、そして長く磨き込まれた革のエプロンを身につけたバーテンダーが、グラスから視線を上げました。年齢は、おそらく私と同じくらいか、わずかに上か——。

彼は、こちらに歩み寄ることなく、ただ、その場で、一度だけ、深く、頷きました。

私は、扉を静かに閉め、カウンターの、入口から最も遠い、奥の止まり木に、ゆっくりと、腰を下ろしました。

カウンターは、わずか七席だけの、短い、しかし重厚な、一枚板の、樫の木でした。

そして、私の目の前には、客が一人、座るたびごとに、そっと、置かれているのでしょう、磨き込まれた、栗色の革のコースターが、ただ一枚、寸分違わぬ位置に、私を、待ち受けていました。

「本日のおすすめは、こちらにございます」

バーテンダーは、私の真正面に、ゆっくりと立ち、一枚の、極めて薄い、和紙のメニューを、コースターの脇に、すっと、置きました。

その置き方の、なんと、静かなことか。

紙の角を、人差し指と中指で、わずかに支えながら。 紙の対角線が、コースターの対角線と、寸分違わず、平行になるように。 そして、紙の重さが、カウンターの木目に伝わる、その最後の一瞬に、ふっ、と、指先の力を、抜きながら。

——一枚の和紙の置き方にも、規律がある。

私は、そう内心で呟きながら、和紙のメニューには、あえて目を落とさず、「ハイボールを、ひとつ。お任せで」とだけ、低い声で、伝えました。

バーテンダーは、わずかに目を細め、これまた一度だけ、深く、頷きました。

そして、ここから先の、ほんの数分間。

私は、これまで生きてきた中で、最も静かで、最も整然とした、「氷を削る所作」を、目撃することになったのです。

カウンターの奥の、白く曇ったショーケースの中から、バーテンダーは、両手で、ゆっくりと、ひとつの大きな、四角い氷柱を、取り出しました。

それは、長い時間をかけて、極めて低温で、しかも、ほとんど水流の動きのない静水の中で、結晶を整えながら、ゆっくりと、ゆっくりと、凍らせていったのでしょう。

カウンターの上の小さな灯りに翳すと、氷柱の中には、気泡が、ひとつも、ありませんでした。

——透明だった。

ただ、ただ、純粋に、透明だった。

その、ひとかけらの濁りもない氷柱を、バーテンダーは、まるで宝石の細工師が原石を扱うかのように、両手で、低く、捧げ持ちながら、氷用のキャンバス布を敷いた木台の上に、そっと、横たえました。

そして、革の鞘から、銀色の、長い、氷専用のアイスピックを、一本、取り出しました。

カチン。

カチン。

カチン。

アイスピックの先端が、氷柱の表面を、規則正しい、しかし極めて控えめな間隔で、削り始めます。

その音は、決して耳障りなものではありません。 むしろ、深い夜の底で、誰かが、確かな指先で、時間そのものを、ゆっくりと、削り出しているかのような、ある種の、静かな、鼓動でした。

ふと、私は、自分の呼吸が、いつのまにか、そのアイスピックの音と、ぴたりと、同じ間隔で、刻まれ始めていることに、気がついたのです。

カチン、と鳴る、その瞬間に、息を、ゆっくりと、吸う。 カチン、と鳴る、その次の瞬間に、息を、ゆっくりと、吐く。

——気づけば、私の呼吸は、いつのまにか、晩秋の夜の、その深い、透明な底へと、吸い込まれていったのです。

そして、削り終えた氷の塊は、まるで、磨き上げられた、ひとつの透明な宝石でした。

光を、何の歪みもなく、完全に、通し抜ける。 角は、どの面からも、寸分違わず、同じ角度で、立ち上がっている。 そして、氷の中心には、まるで、店の空気そのものを、そのまま閉じ込めたかのような、深い、深い、透明さが、宿っている。

これこそが、私の名づける「透明の規律」でした。

バーテンダーは、その氷を、薄手の、しかし重みのあるロックグラスの中に、両手の指先で、優しく、しかし確かに、置きました。

そして、ウイスキーの瓶を、極めてゆっくりと、しかし無駄なく、傾け、注ぎ、最後にソーダを、まるで眠っている赤子に匙を差し向けるかのような優しさで、ほんの少しずつ、加えていきました。

そして——。

私は、バーテンダーの、最後の所作に、息を、深く、深く、飲んだのです。

バーテンダーは、グラスを、私の前のコースターの上に、置いた——のではありませんでした。

——置いた、のではなく、「置きに、来た」のです。

両手でグラスの腰を、しっかりと支えながら、カウンターの内側から、私の前の、コースターの中心へと、グラスの底が、ちょうど、コースターの中心に、寸分違わず、重なるように、ゆっくりと、運んでいきました。

そして、グラスの底が、コースターの革に触れる、その最後の一瞬、まるで、何か、生きている小さな命を、寝かしつけるかのように、ふっ、と、指先の力を、抜いた。

——その瞬間、グラスの底と、革との間には、ほんの僅かの音すら、生まれなかったのです。

そして、バーテンダーは、グラスから手を引いた、その瞬間、目を、わずかに伏せたまま、ほんの一センチほど、軽く、頭を、下げました。

「どうぞ、ごゆっくり、お楽しみくださいませ」

——たった、それだけの、所作。

しかし、その瞬間、私の中で、何かが、深く、静かに、ほどけていったのです。

これは、夜遅く、誰にも知られることなく、たったひとりで扉を押した、ただひとりの客の、その「ひとつの夜」を、決して、軽く扱わない、という、店主の、無言の、しかし、極めて深い、敬意でした。

毎晩、何十人ものお客様の前に、グラスを置く。 それは、バーテンダーにとっては、何千回、何万回と繰り返してきた、極めて日常的な所作のはずです。 しかし、その何万回目の所作を、まるで「初めての、たった一回目」のように、最大限の、慎みをもって、行う。

——これが、「夜への礼節」でした。

そして、この所作こそが、雑踏と仕事の喧騒の中で、知らず知らずのうちに、ささくれだっていた、私の心の表面を、わずか数秒の間に、すうっと、なだめてしまったのです。

私は、グラスを、両手で、ゆっくりと、持ち上げました。

ロックの氷が、グラスの中で、カラン、と、これもまた、控えめに、しかし確かに、澄んだ音を、立てます。

そして、最初の一口を、口に運んだ、その瞬間——。

私の中の、その日一日分の喧騒のすべてが、まるで、その透明な氷の中へ、すうっ、と、吸い込まれていくかのように、静かに、しかし確かに、消えていきました。

——気づけば、私の呼吸も、店の灯りも、奥のジャズの低音も、すべてが、ひとつの、深い、夜の透明さの中に、溶け合っていたのです。

カウンターバーとは、ただ酒を飲む場所ではなく、雑踏に削られた一日分の自分自身の輪郭を、店主の所作と空気で、見えないところで、もう一度、丁寧に、整え直してくれる場所だったのだと、私は、晩秋の深い夜の中で、ようやく、気づいたのです。

——勝田耕司

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