七月のある月曜日の夜更け、午後十時のこと。
——その日は、もう、七月の、梅雨明け後の、真夏の、ふっくらとした、ふんわりと熱の残った、しっとりと重たい夜更け。
——昼間の、ふっくらと白い真夏の太陽の熱が、まだ、街全体の路地の石畳と、街路樹の若葉の中に、ふっと、しっとりと、ふんわりと、深く深く、しっとりと沈み込みながら、ふんわりと、しずかに、しずかに残っていらしたのです。
そして——、その夜更け、街全体の、ふっくらとした、ふんわりと熱の残った空気の中に、ふと、しずかに、しずかに、ある一本の細い路地のほうから——、深い深い夏の夜の、ふっくらとした、しなやかな、ふっと、あの、ふっくらと切なく、しっとりと澄み切った、遠くの、遠くの、ある一匹の虫の初鳴きの、リィ、リィ、リィ……、と、しずかな、しずかな声が——、ひと筋、ふんわりと、流れはじめていらしたのです。
——七月の、真夏の、ふっくらと熱の残った、しっとりと重たい、夜更け。
街路樹の若葉のひと枚、ひと枚は——、もう、真夏のはじまりの、深い深い緑の濃さの中で、ふっくらと、ふんわりと熱を残した、しっとりと重たい夜更けのお暗さを、ふんわりと、しっとりと身にまといながら、おだやかに揺れていらしたのです。
私は、その日の夜のお食事を終え、駅前の大通りから、ひと本だけ路地のほうへと外れた、古い住宅街の一角を、ふっくらと熱の残った、しっとりと重たい夜更けの中、ゆっくりと、家路へと、歩いていました。
——その夜更け、私が、いつもとは違う路地のほうへと、ふと、足を向けようと思い立ったのには、特に、はっきりとした理由は、ありませんでした。
ただ、その、ふっくらと熱の残った七月の真夏の夜更けの風の中に——、ふと、しずかに、しずかに、ある一本の細い路地のほうから——、何か、ふっくらとした、ほのかに冷ややかな、しっとりと澄み切った、しかし、決して、鋭くはない——、まるで、深い深い山の奥の、いちばん澄み切った、いちばん深い湧き水の、ふっと、ご自分の中の、いちばん深いところに、ふんわりと、しなやかに、しっとりとお蓄えになっていらした、深い深い冬の霜の記憶と、深い深い春の雪解けの記憶とを、ふっと、ひとつに、しずかにお解き放ちになっていらしたかのような——、不思議なほどに、深く、ふっくらとした、澄み切ったお匂いが——、ひと筋、ふんわりと、流れてきていたのです。
——七月の、真夏の、ふっくらと熱の残った夜更けの路地の空気の中に、ふと、ふっくらとした、ほのかに冷ややかな、しっとりと澄み切った氷のお匂いが、ひと筋、流れてくる、というのは、まったく不思議なことでした。
——あの、ふっくらとした、ほのかに冷ややかな、しっとりと澄み切った氷のお匂いの先に、どんな店があるのだろう。
私はそう思い、ひと本だけ路地のほうへと、ゆっくりと足を向けたのです。
そして、いくつかの路地を曲がった、その先で——、私は、ある一軒の、小さな店の前に、立っていたのです。
——氷屋。
商店街の路地の、ちょうど突き当たり。
その小さな店の、磨き込まれた木の引き戸は——、もう、すでに、ほんのり、半分ほど、横へとお開けになっていて——、そして、その引き戸のすき間からは——、しずかに、しずかに、ふっくらと、ほのかに透き通った、ふっくらと澄み切った、白く、白い、真夏の夜更けの氷室の灯りが、ふんわりと、こぼれていたのです。
そして、その引き戸のすぐ上の鴨居のところには、深い、深い、ほとんど夏の夜のような、深い深い紺の地に、白く「氷」とたった一文字、染め抜かれた、年代物の暖簾が、ふっくらと熱の残った真夏の夜更けの風の中で、ふんわりと揺れていました。
開業から、優に百年は、超えているのでしょう。
私は引き戸の取手にそっと手をかけました。
引き戸が、長年使い込まれた木の、低く澄んだ音を立てて、ゆっくりと横へ滑った瞬間。
私を包み込んだのは、ふっくらと熱の残った真夏の夜更けの路地の風とは、まったく種類の違う、ふっくらと、ひんやりと、しっとりと、しかし、決して冷えきってはいない、清らかな、清らかな——、ある——もう、何十年、何百年もの間、ご自分の深い深い山の奥のいちばん澄んだ、いちばん深いところで、ふっと、深い深い冬の寒さの、いちばん凍てついた、いちばん深い夜更けに、ふっと、しずかに、しずかに、ゆっくりと、ゆっくりと、お結晶をお結びくださっていらした、ある一片、一片の澄み切った氷の、ふっと、ご自分の中の、いちばん深いところに、ふんわりと、しなやかに、しっとりとお蓄えになっていらした、深い深い冬の霜と、深い深い春の雪解けの記憶の、ほのかに冷ややかな、しっとりと澄み切った匂いと、ふっくらと、ふんわりと敷き詰められた、ほのかに乾いた籾殻の、ほのかに、ほんのり、懐かしい匂いと、そして、長年、何千、何万貫もの氷が、氷師の指先と、氷鋸(こおりのこ)と、氷鉋(こおりかんな)と、氷挟み(こおりばさみ)とのあいだで、ひと片、ひと片と、ふっくらと、しなやかに、お切り分けられ続けてきた、その「ひと片の氷を、ひと椀の氷水のいちばん深い、澄み切ったひと啜りのために、ふっとお切り分けになる場」そのものの、芳醇で、しっとりと落ち着いた、氷と籾殻と鋸の気配とが、ひとつに溶け合った、ふっくらと、ひんやりと、しかし、極めて、清らかな、ひとつの空気の厚みでした。
そこに漂っていたものは、もはや、ただの「氷屋の匂い」では、ありませんでした。
それは、何千、何万貫もの、ある一片の氷が——、もう、深い深い冬のいちばん凍てついた夜更けに、しずかに、しずかに、ゆっくりと、ゆっくりと、お結晶をお結びくださっていらした、ある一片の澄み切った氷が——、ある日、ふっと、ある一人の方の、ご自分のお家の、ふっと、深い深い真夏の熱帯夜の、ふっくらと乾いたお口の、いちばん奥の、いちばん澄み切ったお喉の、いちばん深いところに——、ふっと、しずかに、しずかにお迎えになる、その「ひと椀の氷水の、ふっと、いちばん最初のひと啜りの、しずかな、しずかなお対話のお時間」を——、ふっと、しずかに、しずかにお迎えくださるための、極めて謙虚で、しかし揺るぎない「規律」が、確かに、店の奥の、ふっと、ずらりとお並びになった、ひと片、ひと片の澄み切った氷の中に、息づいていたのです。
「いらっしゃいませ」
店の中央の、磨き込まれた檜の長い作業台の内側で、深い藍色の作務衣の上に、深い灰色のお襷を締めた、白髪のご高齢の氷師が、両手の指先を、ご自分のお襷の脇に、ごく軽くお当てになりながら、私のほうを見て、深く頭を下げてくれました。
年齢はおそらく、もう七十代の半ばに近いでしょうか。
——そして、氷師の作業台の上には、ふっくらと、しなやかに、ふっと、いま、まさに、氷室の奥から、ふんわりとお運びになっていらしたばかりの、ふっくらと、ふんわりと、澄み切った、大きな、大きな、お一貫の氷が、ふっと、ふんわりと、ぴたりとお置きになっていらしたのです。
そして、氷師は、ご自分の右手で、ふっくらと、しなやかな、ふんわりとした、深い深い鋼の、ふっくらと小ぶりな、しなやかな氷鋸を、両手の指先で、ふんわりとお持ちになっていらしたのです。
声の音量は決して強くありませんでした。
むしろ、店内に漂う、ふっくらと、ひんやりと、清らかな、氷と籾殻と鋸の気配を、わずかにも乱さない、絶妙な響き。
私は、店内の中ほどに、ゆっくりと足を進めました。
そしてそこで、私は、息を、深く飲んだのです。
——奥の氷室の、磨き上げられた白木の長い棚の上に、整然と並べてお置きになった、何片もの、ふっくらと、しなやかな、ふんわりと澄み切った、氷のひと片、ひと片。
氷室の壁ぎわの、長い、長い、白木の棚の上には、それぞれ、まったく同じお大きさの、ふっくらと澄み切った氷のひと片、ひと片が、合計、二十数片、ぴたりと、寸分違わぬ間隔で、ふっくらと、しなやかに、整然とお並びになっていらしたのです。
しかし驚くべきは——、その二十数片の氷の、それぞれの、ふっくらと、しなやかな、ふんわりと澄み切った氷のひと片、ひと片の——、ふっと、いちばんお表面の、ふっくらと氷鋸で、ふっと、寸分のずれもなく、しなやかに、ふんわりとお切り分けになった「切り口」の——、ふっくらと絶妙な、絶妙な、ふっくらとした、鏡のような、ふっくらとした平らさが——、寸分のずれもなく、すべて、ぴたりと、まったく同じ、絶妙な、絶妙な、ふっくらとした「切り口」の、鏡のような平らさで、お並びになっていらした、ということでした。
——ふっくらと澄み切ったある一片目の氷の「切り口」も。
——ふっくらと澄み切ったその隣のある二片目の氷の「切り口」も。
——ふっくらと澄み切ったその隣のある三片目の氷の「切り口」も。
それぞれの氷のひと片の、ふっくらとお結晶をお結びくださった深い深い冬の夜更けは、ふっと、ほのかに、ほのかに、ひと片、ひと片、絶妙な、絶妙な違いを、しずかに、しずかに、お築きになっていらしたのに——、その「切り口」の、ふっくらと絶妙な、絶妙な、鏡のような、ふっくらとした平らさは——、すべて、寸分のずれもなく、ぴたりと、まったく対等な、絶妙な、絶妙な、ふっくらとした平らさで、ふっくらと、しなやかにお揃いになっていらしたのです。
——どの氷も、決して、別の氷より、ご自分の「切り口」を、お誇示なさることが、ない。
——どの氷も、決して、別の氷より、ご自分の「切り口」を、お荒くお削り込ませることが、ない。
それぞれの氷の「切り口」は——、お互いに、対等な敬意で、ご自分の、ふっくらと、しなやかな、鏡のような、ふっくらとした平らさを、しずかに、しずかにお保ちになりながら——、決して、別の氷の「切り口」に、お重なりになることは、なく——、ただ、しずかに、しずかに、ご自分の出番が、ふっと、ある一人の方の、ふと、ご自分のお家の、ふっと、深い深い真夏の熱帯夜の、ふっくらとしたお椀のちょうど真ん中のいちばん深いところに、ふっと、お招きされ、その方の、ふと、ひと椀の氷水のいちばん最初のひと啜りをお迎えになる、その瞬間を、しずかに、しずかにお待ちになっていらしたのです。
——たった、氷の、ふと、「切り口」の、鏡のような、ふっくらとした平らさの中にも、規律が宿る。
これこそが、私の名づける「切り口の規律」でした。
そして、氷師は、ご自分の作業台の上の、いま、まさに、ご自分のお手のひらの中に、ふっと、ふんわりとお置きくださっていらした、氷室の奥から、ふんわりとお運びになっていらしたばかりの、ふっくらと、ふんわりと、澄み切った、大きな、大きな、お一貫の氷を——、ふっと、両手で、低く、ふんわりとお持ちになりました。
そして、ご自分の右手の、ふっくらと、しなやかな、ふんわりとした、深い深い鋼の氷鋸を、ふっと、ご自分の右手の指先で、ふんわりと、しなやかに、ぴたりとお持ちになりました。
そして、そのふっくらと澄み切った、大きな、大きな、お一貫の氷の、ふっと、ちょうど、ある寸分のずれもない、絶妙な、絶妙な、ふっくらとしたお位置に——、ふっと、寸分も急がず、しなやかに、ふんわりと、氷鋸のいちばん先の歯を、ふっと、しずかに、しずかに、ぴたりとお当てになりました。
そして、氷師は——、何度か、深く、しずかに、ご自分の呼吸を、お整えになっていらしたのです。
そして、ふっと、息を、お止めになりました。
そして、その瞬間。
氷師は、ご自分の右手の氷鋸を、ふっと、寸分も急がず、しなやかに、ふんわりと——、ジャリ……、ジャリ……、ジャリ……、と、ふっくらとした、しなやかな、ふんわりとした音を、しずかに、しずかにお立てになりながら——、ふっと、ちょうど、ある寸分のずれもない、絶妙な、絶妙な、ふっくらとしたお位置で、ふっくらと澄み切った、大きな、大きな、お一貫の氷を、ふっと、ぴたりと、ひと片、しなやかに、しっとりと、お切り分けになっていらしたのです。
——たった、ふっくらと、ふんわりと、ひと片のお切り分け。
しかし、その、ふっくらと、ふんわりと、ひと片のお切り分けが終わった、その瞬間——、氷師のふっと切り分けられたお一片の氷は、もう、たった今、ご自分の中の、ふっくらと、しなやかな、深い深い冬のいちばん凍てついた夜更けに、しずかに、しずかにお結晶をお結びくださっていらした、ご自分の中の、いちばん奥の、いちばん澄み切った、ふっくらとしたひと筋のお命の記憶を——、ふっと、ぴたりと、ご自分の「切り口」の、ふっくらと鏡のような平らさの、ふっと、いちばん深いところに、しずかに、しずかにお目覚めくださっていらした、ということを——、私は、確かに、お感じになることになったのです。
——氷を、ただ、お切り分けになっていらした、のでは、ありませんでした。
——お大きさを、ただ、お測りになっていらした、のでも、ありませんでした。
氷師は、その、たった、ひと片のお切り分けの中に——、これから、そのお一片の氷が、ある一人の方の、ご自分のお家の、ふっと、深い深い真夏の熱帯夜の、ふっくらとしたお椀の、ちょうど真ん中のいちばん深いところに、ふっと、お招きされた、その瞬間に——、その方が、ご自分の、ふっと、深い深い真夏の熱帯夜の、ふっくらと乾いたお口の、いちばん奥の、いちばん澄み切ったお喉の、いちばん深いところに——、ふっと、しずかに、しずかにお迎えになる、その「ひと椀の氷水の、ふっと、いちばん最初のひと啜りの、ふっと、いちばん深いところで、ふっと、しずかに、しずかにお目覚めになる、深い深い冬のいちばん凍てついた夜更けの、ふっくらとしたお命の記憶の、しずかな、しずかなお対話のお時間」を——、確かに、ご自分の氷鋸の、たった、ふっくらとしたひと片のお切り分けの中に、お預けくださっていらしたのです。
——これが、「ひと椀の氷水を待たれる方への礼節」でした。
そして、私は、その氷師の、ふっと、たった、ひと片のお切り分けの、ふんわりと、しなやかなお動きを、この目で、確かに、お預かりさせていただきながら——、ふと、しずかに、しずかに、あることに、気づいたのです。
——本当に、本当にたいせつな「ひと椀の氷水のいちばん深いひと啜り」というものは、けっして、ふっと、目に見える氷の、ふっくらとしたお大きさの中にあるのでは、ない。
むしろ、その氷のお一片の、ふっと、いちばんお表面の「切り口」の、ふっくらと鏡のような、寸分のずれもない絶妙な平らさの、ふっと、いちばん奥の、いちばん深いところに——、ふっと、しずかに、しずかにお預けくださっていらす、ある一片の氷が、深い深い冬のいちばん凍てついた夜更けに、しずかに、しずかにお結晶をお結びくださっていらしたお時間の、ふっくらとした重みの中にこそ——、宿っている。
そして、これは、ふと、氷屋の店先のお話だけの、お話では、ないのかもしれません。
——ふと、いま、この熱帯夜の、ふっくらと熱の残った、しっとりと重たい夜更けの、ふっと、しずかな、しずかな路地の、いちばん深いところで——、ふっと、目に見える氷のお大きさよりも、ずっと前の、ふっと、まだ、お椀にお迎えになっていらっしゃらない氷のひと片の、ふっと、いちばん深い「切り口」の、鏡のような平らさに——、ふっと、ぴたりと、寸分のずれもなく、しずかに、しずかにお預けくださっていらす、たった、ふっくらとしたひと片のお切り分けの所作を——、ふっと、いま、この瞬間に、しずかに、しずかにお続けくださっていらす、ふっくらとしたお手が——、この街のどこかに、ふっと、確かに、いらっしゃるのだろう。
——そして、ふと、その、ふっくらとしたお手が、いまこの瞬間に、ふっと、寸分のずれもなく、ふっくらと、しずかに、しずかにお預けくださっていらすからこそ——、ふっと、今夜の、ある一人の方の、ふっと、ご自分のお家の、ふっと、深い深い真夏の熱帯夜の、ふっくらと乾いたお口のいちばん奥の、いちばん澄み切ったお喉の、いちばん深いところに、しずかに、しずかにお迎えになる、ひと椀の氷水のいちばん最初のひと啜りは——、ふっと、ぴたりと、決まっているのだ。
——そして、ふと、もし——、その「たったひと片のお切り分けの、寸分のずれもない、鏡のような、ふっくらとした平らさの所作」の場が、ふっと、しずかに、しずかにお消えになっていらしたとしたら——。
——そのお消えは、ふっと、今夜のいちばんに、お見えになることは、ない。
——そのお消えは、ふっと、ひと月後、ふた月後の、いちばんに、お見えになることも、ない。
——そのお消えは、ふっと、ひと夏後、ふた夏後、み夏後の、ある一人の方の、ふっと、深い深い真夏の熱帯夜の、ふっくらと乾いたお口の、いちばん奥のお喉の、ふっと、ひと椀の氷水の、ふっと、いちばん最初のひと啜りの場が——、ふっと、ぴたりと、決まらなかった、そのふっと、ある夜更けの、しずかな、しずかなひと呼吸の中で——、しずかに、しずかに、ご自分のお姿を、お現しになっていらすのだ。
——「あれ、ふっと、いちばん最初のひと啜りの、いちばん深いところの、ふっくらとしたお脈拍が、何かひとつ、ふっと、お足りにならないような、ふっくらとしたお気持ちがいたします」——と、ふと、あるお一人の方が、ふっと、ご自分のお椀の、ふっと、いちばん深いところを、しずかに、しずかに、お眺めになった、その瞬間に——。
——そして、そのお気持ちが、ふっと、ぴたりと、決まってしまわれた、その瞬間には——、もう、あの、ふっくらと絶妙な「切り口」の、鏡のような、ふっくらとした平らさを、ふっと、お取り戻しになるには——、また、ひと年、ふた年、み年、あるいは、十年、二十年の、ふっくらとした所作のお積み重ねが、必要になっていらすのだ。
——だからこそ、この街の、ふっと、しずかな、しずかな路地の、いちばん深いところの、あの、ふっくらとしたひと片のお切り分けの、寸分のずれもない、鏡のような平らさの所作は——、ふっと、いま、この瞬間に——、しずかに、しずかに、寸分のずれもなく、ふっくらと、ぴたりと、お続けくださっていらっしゃるのだろう。
——目には見えない、しかし、確かに、いま、この熱帯夜の夜更けの、ふっくらと熱の残った空気の、いちばん深いところに、ふっと、ぴたりと、宿っていらす、あの、ふっくらとしたひと片のお切り分けの重みとして——。
私は、深く深く頭を下げ、引き戸を、ゆっくりと閉め直して、七月の、もう、すっかりと、ふっくらと熱の残った、しっとりと重たい熱帯夜に染まり始めた、しずかな路地に、再び戻りました。
街路樹の若葉は——、もう、真夏のはじまりの、深い深い緑の濃さの中で、ふっくらと熱を残した、しっとりと重たい夜更けのお暗さを、ふんわりと、しっとりと身にまといながら、おだやかに揺れていらしたのです。
そして、まだ、私の鼻先には——、たった今、氷師のふっくらとしたひと片のお切り分けから、しずかに、しずかにお流れになっていらした、ふっくらとした、ほのかに冷ややかな、しっとりと澄み切った氷のお匂いが、しずかに、しずかにお流れになり続けていたのです。
——氷屋とは、ただ、ひと片のお冷たさをお渡しになる場所では、ない。
——氷屋とは、ある一人の方の、ふっと、ご自分のお家の、ふっと、深い深い真夏の熱帯夜の、ふっくらと乾いたお口のいちばん奥の、いちばん澄み切ったお喉の、いちばん深いところに、しずかに、しずかにお迎えになる、ひと椀の氷水のいちばん最初のひと啜りの、ふっと、いちばん深いところで、ふっと、しずかに、しずかにお目覚めになる、深い深い冬のいちばん凍てついた夜更けのお命の記憶を——、確かに、ご自分のひと片のお切り分けの中に込めて、しずかに、しずかにお預けくださる場所だったのです。
vibes は、目には見えません。
しかし vibes は、こうして、たった、ひと片の氷の、ふっと、いちばんお表面の「切り口」の、寸分のずれもない、鏡のような平らさの中にすら、氷師の何十年もの所作の重みと、もう、何十年、何百年もの間、ご自分の深い深い山の奥のいちばん澄んだ、いちばん凍てついた冬の夜更けに、ふっと、しずかに、しずかに、ゆっくりと、ゆっくりとお結晶をお結びくださっていらした澄み切った氷の、ふっくらとした重みとが、ともに織り込まれ——、これから、ある一人の方の、ご自分のお家の、ふっと、深い深い真夏の熱帯夜の、ふっくらと乾いたお口のいちばん奥のお喉のいちばん深いところに、しずかに、しずかにお迎えになる、ひと椀の氷水のいちばん最初のひと啜りの中に、しずかに、しずかにお流れになり続けてゆくのでしょう。
——空気は、ある一人の方の、ご自分のお家の、ふっと、深い深い真夏の熱帯夜の、ふっと、ひと椀の氷水のいちばん最初のひと啜りの中にすら、まったくお会いになったこともない、ある一人の氷師の、ふと、寸分のずれもないひと片のお切り分けの中に、何十年もの所作の重みを、しずかに、しずかにお預けしてしまう。
それこそが、看板にも、値札にも、決して書かれることのない、町外れの老舗の氷屋という店の、最も深い、最も静かな「透明な資産」だったのだ——。
私は、まだ、私の鼻先に、しずかに、しずかにお流れになり続けている、ふっくらとした、ほのかに冷ややかな、しっとりと澄み切った氷のお匂いとともに、七月の、もう、しっとりと重たい熱帯夜の、ふっくらと熱の残った夜更けの中の、しずかな路地の中で、ようやく気づいたのです。
——勝田耕司











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