透明資産を見つけよう

【透明資産を見つけよう】六月のしっとりとした朝、町の老舗の組紐屋。台に下がる「玉の高さの規律」と、ふたつの玉を交わす所作という名の「ひと結びを託される方への礼節」

六月のある火曜日の朝、午前九時のこと。

——その日の早朝のうちまでは、しずかに、しずかに、しとしとと、ふんわりと、降り続いていた六月の小ぶりな雨が、ちょうど、午前八時半の頃に、ふっと、ふっと、空のいちばん高いところから、しずかに、しずかに、止みはじめた、ちょうどその時刻。

雲のすき間からは、まだ、はっきりとした夏のはじまりの陽差しでは、決してない、ほのかな、淡い、ふんわりと白い、初夏の朝のしっとりとした薄陽が、街路樹の若葉の上に、ふんわりと、こぼれはじめていたのです。

——梅雨入りの、しっとりと、淡くまろやかな朝。

私は、午前中のアポイントまでの、ぽっかりと空いた一時間半ほどを抱えながら、いつもの大通りから、ひと本だけ路地のほうへと外れた、古い住宅街の一角を、ゆっくりと、歩いていました。

——その朝、私が、いつもとは違う路地のほうへと、ふと、足を向けようと思い立ったのには、特に、はっきりとした理由は、ありませんでした。

ただ、雨上がりの、しっとりとした、淡くまろやかな朝の風の中に——、ふと、しずかに、しずかに、ある一本の細い路地のほうから——、いつも見慣れているはずの、住宅街のしずかな緑の景色の中に、ふと、まるで、もう、街の片隅に、こっそりとお咲きになり始めていらした、初夏の紫陽花の、淡い淡い、しっとりとした、淡藤色や、淡桃色や、淡藍色や、淡白色の——、その「梅雨入りの花の色」たちが、ふっと、まとめて、ふんわりとお溶け合ったような、ある、しっとりとした「色のお匂い」が——、ひと筋、ふんわりと、流れてきていたのです。

——梅雨入りの、しっとりとした朝の路地の空気の中に、ふと、まるで、紫陽花のお色そのものを、お溶かしになったような匂いが、ひと筋、流れてくる、というのは、まったく不思議なことでした。

——あの、ふっくらと、しっとりと、しずかな紫陽花のお色のような匂いの先に、どんな店があるのだろう。

私はそう思い、ひと本だけ路地のほうへと、ゆっくりと足を向けたのです。

そして、いくつかの路地を曲がった、その先で——、私は、ある一軒の、小さな店の前に、立っていたのです。

——組紐屋。

商店街の路地の、ちょうど突き当たり。

その小さな店の、磨き込まれた木の引き戸は——、もう、すでに、ほんのり、四分の一ほど、横へとお開けになっていて、その引き戸のすき間から——、しずかに、しずかに、ある、ふっくらと、しっとりと、何十色もの、絹のような細い糸の、ささやかな、しかし、確かな色の気配が、ふんわりと、こぼれていたのです。

そして、その引き戸のすぐ上の鴨居のところには、深い、深い、ほのかに紫の藤色の地に、白く「組紐」とたった二文字、染め抜かれた、年代物の暖簾が、雨上がりの、しっとりとした朝の風の中で、ふんわりと揺れていました。

開業から、優に九十年は、超えているのでしょう。

私は引き戸の取手にそっと手をかけました。

引き戸が、長年使い込まれた木の、低く澄んだ音を立てて、ゆっくりと横へ滑った瞬間。

私を包み込んだのは、雨上がりの路地の、しっとりとした、初夏の青い若葉の匂いとは、まったく種類の違う、深く、しっとりと、しかし、決して重くはない、ある——磨き上げられた絹のような細い糸の、ほのかに、しなやかな、清らかに澄んだ匂いと、何十色もの草木染めの、淡い、淡い、しっとりとした、自然の植物のお色の、まろやかな、おだやかな匂いと、そして、長年、何千、何万本もの絹糸が、職人の指先と、台と、玉とのあいだで、ひと組、ひと組と、お編み上げになり続けてきた、その「ひと結びの場」そのものの、芳醇で、しっとりと落ち着いた、絹と色の気配とが、ひとつに溶け合った、深く、しかし、極めて、清らかな、ひとつの空気の厚みでした。

そこに漂っていたものは、もはや、ただの「組紐屋の匂い」では、ありませんでした。

それは、何千、何万本もの絹糸が——、もう、何百年も昔からのお蚕さまのご一生と、何百年もの草木染めの染師の指先と、何百年もの組紐職人の所作の重みとを、ひとつにご一緒にお預かりしながら——、ある一人の方の、ご自分の人生のたいせつな、ある「ご結び」の瞬間のために、ひと組、ひと組と、丁寧に、お編み上げられ続けてきた、その「無数の、ひと結びとの出会い」そのものの気配だったのです。

そこには、ある一人の方の、ご自分のたいせつな、たった一つの「ご結び」を——、何十本もの、絹の細い糸を、ひとつに、ぴたりと、お編み上げになって、しずかに、しずかにお預けくださるための、極めて謙虚で、しかし揺るぎない「規律」が、確かに、絹糸の、ひと束、ひと束のしずかな張りの中に、息づいていたのです。

「いらっしゃいませ」

工房の中央の、磨き込まれた檜の、ふっくらとした丸い組紐台の前で——、深い藤色の作務衣の上に、薄い灰色の前掛けを締めた、白髪のご高齢のお女将が、両手の指先を、ご自分の前掛けで、ごく軽くお拭きになりながら、私のほうを見て、深く頭を下げてくださいました。

年齢はおそらく、もう七十代に近いでしょうか。

声の音量は決して強くありませんでした。

むしろ、工房に漂う、深く、しっとりと、まろやかな絹と草木のお色の気配を、わずかにも乱さない、絶妙な響き。

——そして、私は、お女将の前の、磨き上げられた、ふっくらとした丸い組紐台の上で——、いま、まさに、お編み上げの途中の、ある一筋の組紐の、まだ、ご自分のお姿の途中で、横たわっていらした、その所作の途中をお見せいただいた、その瞬間。

私は、息を、深く飲んだのです。

その丸い組紐台の、いちばん高いところには、ふっくらと丸い、磨き上げられた檜の「鏡」と呼ばれる円板があり、その鏡のちょうど真ん中の真ん中には、小さな、ふっくらとした穴が、お開いていたのです。

そして、その鏡の上の、外側のところには——、合計、十六本もの、淡い、淡い、しっとりとした、絹の細い糸が——、それぞれ、ひと束、ひと束ごとに、まったく違うお色を、ふっくらと、しずかに、しずかにご自分の前に、お抱えになりながら、上から、ふんわりと、下のほうへと、ゆるやかに、お垂れになっていたのです。

そして、それぞれの絹糸の、いちばん下のところには——、ふっくらとした、磨き上げられた檜の、丸い「玉」と呼ばれる小さな重りが、ひとつ、ひとつと、ぴたりと、結ばれていたのです。

——そして、驚くべきは。

その十六本の絹糸の、それぞれの下に下がった、十六個の檜の玉の、いちばん下のところ——、玉のいちばん底のところの高さが——、寸分のずれもなく、すべて、ぴたりと、同じ水平の線の上に、お並びになっていらしたのです。

——淡藤色の玉も。
——淡桃色の玉も。
——淡藍色の玉も。
——淡白色の玉も。
——淡若菜色の玉も。
——淡群青色の玉も。
——淡紅梅色の玉も。
——淡桑実色の玉も。

そして、いちばん奥の——、淡萌黄色の玉も。
そして、いちばん手前の——、淡薄紅色の玉も。

ひと色、ひと色の絹糸の、玉のいちばん底の高さは——、寸分のずれもなく、ぴたりと、ぴたりと、同じ高さに、お整えになっていたのです。

——どの玉も、決して、別の玉と、ご自分の重みを、競わない。
——どの絹糸も、決して、別の絹糸と、ご自分の張りを、競わない。

ひと色、ひと色の絹糸は——、ご自分のお色の、それぞれの、しずかな個性を、しずかに保ちながら——、ご自分の重みの大きさは、決して、別の色の絹糸より、わずかも、重くはない。

——同じ高さで、ぴたりと、同じ張りで、しずかに、しずかに、お待ちになっていらしたのです。

——たった、組紐台の上の、十六個の玉の底の高さの中にも、規律が宿る。

これこそが、私の名づける「玉の高さの規律」でした。

そして、お女将は、ご自分の両手の指先を、ふっと、組紐台の上の、十六個の玉の中の、ある二つの隣り合った玉のところへと、ふんわりと、お向きになりました。

そして、ご自分の左の指先で、淡藤色のひと玉を、ふっと、ふんわりとお持ち上げになり、ご自分の右の指先で、淡白色のひと玉を、ふっと、ふんわりとお持ち上げになりました。

そして、お女将は——、何度か、深く、しずかに、ご自分の呼吸を、お整えになっていらしたのです。

そして、ふっと、息を、お止めになりました。

そして、その瞬間。

お女将は、ご自分の両手の中の、淡藤色のひと玉と、淡白色のひと玉を——、ふっと、ご一緒にお持ち上げになり——、ぴたりと、寸分のずれもなく、お互いのお位置を、ふんわりとお交わしになっていらしたのです。

——たった、ふたつの玉の、お位置のふっと、ひと交わし。

しかし、その「ふと、ひと交わし」の中で——、組紐台の鏡の上の、十六本の絹糸は——、ふっと、しずかに、しずかに、ご自分の交差を、深く、ぴたりと、ひと組、ふんわりと、お組み加えていらしたのです。

そして、組紐台の真ん中の、ふっくらとした穴の下から、ふっと、しずかに、しずかにお育ちになり続けていた、ある一筋の、まだ、お編み上げの途中の組紐の、ちょうど一段、ひと組、ふっくらと、しなやかに、お育ちになっていらしたのです。

——玉を、ただ、ふっとお交わしになった、のでは、ありませんでした。
——絹糸を、ただ、お編み上げになっていらした、のでも、ありませんでした。

お女将は、その、たった、ふっと、ふたつの玉のひと交わしの中で——、十六本の、それぞれのお色の絹糸が、ぴたりと、ひと組、ひとつの「ご結び」へと、ふんわりと、お織りになっていく、その「無数の絹糸が、ふと、ひとつに、お結ばれてゆく」、その瞬間を——、確かに、ご自分の両手の指先の、たった、ふっとひとつの交わしの中に、お預けくださっていらしたのです。

——これが、「ひと結びを託される方への礼節」でした。

毎日、何筋もの組紐を、お編み上げになっていらっしゃるお女将。

それは、彼女にとって、もう、何百万回と、くりかえしてきた、極めて日常的な所作のはずです。

しかし、その何百万回目の所作を、まるで、初めての、たった一筋の、たった一人のお客さまの、ご自分のたいせつな、たった一つの「ご結び」の瞬間のように——、その一筋の組紐が、これから、誰のお腰の帯の上で、誰の和服の上で、誰のお茶のお席の袋紐として、しずかに、しずかにお結ばれていくのかを、確かに、思い描いた上で——、その「ご自分のたいせつな、たった一つのご結びを、しずかに、しずかにお託しくださる、お一人、お一人」への、深い、深い敬意を、無言のうちに、ふたつの玉の、たった、ひと交わしの中に込めて、お編み上げになる。

そして、私は、その瞬間、ようやく、はっきりと、分かったのでした。

——人生の、本当にたいせつな「ご結び」。

それは、決して、ひと色だけの、しなやかな絹糸の中にあるのでは、ありません。

むしろ、十六本もの、まったく違うお色の、まったく違うご個性の、まったく違うふるさとの絹糸が——、ぴたりと、寸分のずれもない同じ張りで、ぴたりと、寸分のずれもない同じ高さで、ぴたりと、まったく対等な敬意で、互いにご自分のお色を、しずかにお保ちになりながら——、ふっと、ひとつの「ご結び」へと、お織りになってゆく、その「異なる色たちが、ふと、ひとつになる、ささやかなご縁」の中にこそ——、人生の、本当にたいせつな「ひと結び」が、確かに、お宿りになっていらしたのです。

そして、その「異なるお色たちが、ふと、ひとつになる、ささやかなご縁」のために——、誰かが、毎日、毎日、しずかに、しずかに、ご自分の指先の、たった、ふたつの玉のひと交わしの中に、何十年もの所作の重みを、お預けくださっていた。

私は、その日、何も、お買い物を、いたしませんでした。

ただ、ただ、組紐台の上の、十六個の檜の玉の、ぴたりと、寸分のずれもない、お互いの高さと、お女将の指先の、たった、ふたつの玉のひと交わしの、ふっくらとした、しずかなお動きを、目の中に、確かに、お預かりさせていただいただけで、十分でした。

そして、お女将は、私のほうを見て、こう、低くおっしゃられたのです。

「ひと筋の組紐の中には、十六本もの絹糸が、ぴたりと、ひとつに、お織り込まれております。十六本のそれぞれのお色は、決して、お互いをお消しになることもなく、決して、お互いに勝とうとなさることもなく——、ひとつの組紐の中で、十六本がそれぞれ、ご自分のお色のままで、ふんわりと、しずかに、しずかに、お息づきになり続けてくださいます」

——「十六本のそれぞれのお色は、決して、お互いをお消しになることもなく、決して、お互いに勝とうとなさることもなく——、ひとつの組紐の中で、十六本がそれぞれ、ご自分のお色のままで、ふんわりと、しずかに、しずかに、お息づきになり続けてくださいます」。

そのひとことの中に、お女将は、ご自分の何十年もの、毎日、毎日の、ふたつの玉のひと交わしの中に——、確かに、十六本のそれぞれのご個性を、決して、お消しにすることなく、ぴたりと、ひとつに、お織り込んでこられた、その「目には決して見えない、十六色のお優しさのご縁」を——、ふっと、私の前で、お明かしくださっていらしたのです。

私は、深く深く頭を下げ、引き戸を、ゆっくりと閉め直して、六月の、しっとりとした、まろやかな朝の路地に、再び戻りました。

街路樹の若葉は、まだ、雨上がりの、しっとりとした水滴を、いくつも、いくつも、葉の縁に、お抱きになりながら、淡い、淡い、しっとりとした朝の薄陽の中で、ふんわりと揺れていました。

そして、街の片隅には——、もう、初夏の、しずかな紫陽花の、淡い藤色や、淡い藍色や、淡い桃色や、淡い白色の花たちが、ふんわりと、しずかに、しずかにお咲きはじめていらしたのです。

そして、その紫陽花の、ひと色、ひと色のお色たちは——、たった今、私が、お女将の組紐台の上で、お見せいただいた、十六本の絹糸の、ぴたりと、ひとつになる「ご結びのお優しさ」と——、ふと、しずかに、しずかに、響き合っていらしたのです。

——組紐屋とは、ただ、絹糸を、お編み上げになる場所では、ない。
——組紐屋とは、まったく違うお色の、まったく違うご個性の、まったく違うふるさとの絹糸たちが——、ぴたりと、寸分のずれもない同じ張りで、お互いに対等な敬意を払いながら、ご自分のお色のままで、ふんわりと、ひとつに織り込まれていく、その「ひと結び」のお優しさを——、ふたつの玉の、たった、ひと交わしの中に込めて、お預けくださる場所だったのです。

vibes は、目には見えません。

しかし vibes は、こうして、たった一筋の組紐の、ふと、ひと組のお編み上げの中にすら、お女将の何十年もの所作の重みと、十六本のそれぞれのお色の、ご個性のお優しさとが、ともに織り込まれ——、これから、ある一人の方の、ご自分のたいせつな「ひと結び」の瞬間の中に、しずかに、しずかにお流れになり続けてゆくのでしょう。

——空気は、まったく違うお色たちが、ふっと、ひとつの「ご結び」になってゆく、その「ご個性のお優しさのご縁」を——、たった、ふたつの玉の、ひと交わしの中に、しずかに、しずかにお預けしてしまう。

それこそが、看板にも、値札にも、決して書かれることのない、町の老舗の組紐屋という店の、最も深い、最も静かな「透明な資産」だったのだ——。

私は、まだ、私の目の中に、しずかに、しずかにお流れになり続けている、十六本のしっとりとした絹糸のお色たちと、街の片隅の紫陽花の、ひと色、ひと色の淡いお優しさとを、ご一緒にお抱きしながら、六月の、雨上がりの、しっとりとした、淡くまろやかな朝の路地の中で、ようやく気づいたのです。

——勝田耕司

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