透明資産を見つけよう

【透明資産を見つけよう】五月の昼下がり、町外れの老舗の鰻屋。炭火の上の「順送りの規律」と、お重を両手で運ぶ所作という名の「新しいご縁を結ぶ手への礼節」

五月の下旬のある木曜日の昼下がり、午後一時のこと。

陽差しがもう、初夏というよりは、夏のはじまりの明るさを、街全体に、ふわりと、しかし確かに満たし始めた、ちょうどその時刻。

私は、いつもの大通りから、ちょうど一本だけ路地のほうへと外れた、古い住宅街の入り口の角で、ある一人の若い男性を、しずかにお待ちしていました。

——その日、私が一人の若い男性をお待ちしていたのには、ひとつの、はっきりとした理由がありました。

来月の十五日に結婚する、私の娘の、お相手の方——、すなわち、もうすぐ私の婿となる方を、私はその日の昼下がり、たった一度、二人だけでお食事をご一緒したく、お招きしていたのです。

きっかけは、ある一週間ほど前のことでした。

私はその夜、リビングのソファで、紅茶を飲みながら、ふと、こう、思ったのです。

——もう、お会いするのは、何度目になるだろうか。

娘の結婚のお相手の方とは、もう、これまでにも、何度かは、お会いしておりました。

最初にお会いしたのは、もう半年も前のこと。 娘が、ご自分から、リビングに、その方を、お連れしてきたのです。 そしてその後、いくつかの席で、また、何度か、ご一緒する機会が、ありました。

しかし——、私はそれらの機会の中で、ただの一度も、娘と妻のいないところで、その若い方と、二人だけで、ゆっくりとお話しをしたことがありませんでした。

——式の前に、一度、二人だけで、ご飯をご一緒したい。

そう、私はその夜、心に決めたのです。

そして翌日、私は、娘にお話ししました。

「彼を、ご飯にお誘いしてもいいかな。父さんと、二人だけで」

娘は、しばらく、私の顔を見ました。

そして、ゆっくりと頷きました。

「ええ。きっと、喜ぶと、思う」

そしてその数日後、私は、その若い方のご都合のよいお昼を伺い、町外れのある一軒の老舗の鰻屋で、ご一緒することになったのです。

そして、その木曜日の昼下がり。

私は、若いその方をお待ちする路地の角に、ひとり、立っていました。

そして、五月の初夏のやわらかな風の中、向こうの路地から、ゆっくりと、しかし、確かにしっかりとした足取りで、お一人、若い男性が、こちらへと歩いてきたのです。

「お父さま、本日は、ご招待、ありがとうございます」

——若いその方は、私の前に立ち、丁寧に、深く頭を下げてくださいました。

紺色の、地味な、しかし、確かに、きちんと仕立てのよい、夏のスーツに、白いシャツ。 ネクタイは、薄い、ごく上品な、灰色のもの。

——「お父さま」というその呼びかけが、まだ、結婚前のお互いの関係の中では、決して馴れ馴れしくもなく、しかし、決してよそよそしくもない、ちょうどよい、慎ましい距離感の、絶妙な響きを、もっておりました。

私は、お辞儀を返し、こう申し上げました。

「いえいえ。今日は、わざわざ、お時間をいただきまして、ありがとうございます。お腹、空いていらっしゃいますか」

「はい。とても」

——そう、若いその方は、おだやかに、しかし、はっきりとお答えになりました。

そして、私と、もうすぐ私の婿となる若いその方は、二人で、その町外れの老舗の鰻屋へと、ゆっくりと、歩いていったのです。

商店街の路地の、ちょうど突き当たり。

私たちは、磨き込まれた木の引き戸の上に、深い焦げ茶色の地に、白く「うなぎ」とたった三文字、染め抜かれた、年代物の藍色の暖簾が、初夏のやわらかな昼下がりの風にふわりと揺れている、ある一軒の店の前に、立っていました。

開業から、優に九十年は超えているのでしょう。

「お父さまの、よくご存じのお店、なのですか」

若いその方は、暖簾をしばらく見上げて、こうお尋ねくださいました。

「もう、三十年来、年に二、三度ほど、ふらりと寄らせていただいております」

私は引き戸の取手にそっと手をかけました。

引き戸が、長年使い込まれた木の、低く澄んだ音を立てて、ゆっくりと横へ滑った瞬間。

私たちを包み込んだのは、初夏の昼下がりの路地の、明るい風の中とは、まったく種類の違う、深く、香ばしく、しかし、決して、けばけばしくはない、ある——備長炭の、ほのかに上品な、燻りの匂いと、煮詰められた甘辛い、たれの匂いと、そして、長年、九十年もの間、何百、何千の鰻が、この店の炭火の上で、ひと串、ひと串と、ていねいに焼き起こされてきた、その「炭と鰻と人との出会いの場」そのものの、芳醇で、しっとりと落ち着いた気配とが、ひとつに溶け合った、深く、しかし、極めて静謐な、ひとつの空気の厚みでした。

そこに漂っていたものは、もはや、ただの「鰻屋の匂い」ではありませんでした。

それは、何千、何万という、お祝いの席や、人生の節目、節目の、確かに「これを、ご縁の方と、ともに分かち合っておきたい」と願う、その、ささやかな、しかし、確かな歳月のしるしを、この店の中で、ひと膳、ひと膳と、丁寧にお預かりされ続けてきた、その「無数の、ご縁の節目との出会い」そのものの気配だったのです。

そこには、これから、ある二人の方が、まだ、お互いに「家族」ではない、しかし、もうすぐ「家族」になろうとしている、その、ちょうど境目の、繊細な間合いの上で、ご一緒に、ひと膳のお食事を、お預かりするための、極めて謙虚で、しかし揺るぎない「規律」が、確かに、炭火の赤い熾火の中に、息づいていたのです。

「いらっしゃいませ」

店の奥の、長い木のカウンターの内側で、白いシャツの腕を肘の少し上まで捲り、藍色の前掛けを締めた、白髪のご高齢の店主が、長い金属の箸を、両手に持ったまま、私たちのほうを見て、深く頭を下げてくれました。

そして、年配の女将が、両手を、丁寧に、私たちの脇まで、おだやかにお向けになりました。

「お二人さま、奥のお座敷に、ご用意がございます。どうぞ、ごゆっくり」

声の音量は決して強くありませんでした。

むしろ、店内に漂う、深く香ばしい炭火の気配を、わずかにも乱さない、絶妙な響き。

私と、もうすぐ私の婿となる若いその方は、女将に両手で低く案内され、奥の、ちいさな、しかし、ゆとりのあるお座敷に、向かい合わせに、ゆっくりと腰を下ろしました。

そして、私は、お座敷から、ちょうど、カウンターの奥の焼き場が、見通せる位置に、座っておりました。

そしてそこで、私は、息を、深く飲んだのです。

——カウンターの奥の、年代物の、長い、長い、檜の焼き台の上に、整然と並べられた、何串もの、鰻の串。

その焼き台の上には、その日のお昼の、まだ、お客様にお出しになる前の、合計、八串の、開いた鰻が、しずかに、しずかに、炭火の上に、横たえられていたのです。

そして店主は、その八串を、決して、ばらばらに、思いつくままにお焼きになっていらしたのではありませんでした。

——左端の串から、ひとつずつ、順に、ふっと、ひっくり返しては、また、つぎの串へ。 ——右端の串まで、ひと巡り、ひと巡りされたあと、また、左端の串へとお戻りになる。

そうして、店主は、ご自分の右手の、長い金属の箸の動きを、決して、一本の串の上にも、不当に長く留めず、また、決して、一本の串の上にも、不当に短く済ませず——、八本の串のすべてに、まったく等しい時間ずつ、ご自分の眼差しと、お手のはたらきを、お注ぎ続けていらしたのです。

——八本の串が、互いの「焼き加減」を、決して、競わない。 ——どの一本も、贔屓されず、どの一本も、見落とされない。

ご自分の右手のひと運びを、ただ、ひたすらに、左から右へ、右から左へと、ぐるりと、ぐるりと、何度も、繰り返していらっしゃる。

その、ご自分の眼差しの、ひと巡りの中に——、八本の串のすべての鰻が、寸分の差なく、いちばんよい焼き加減で、お客様の、ひと膳のお重の上へと、お運びされていくための、その秘訣そのものが、宿っていたのです。

——たった、左から右への、ご自分の手の、ひと巡りの中にも、規律が宿る。

これこそが、私の名づける「順送りの規律」でした。

私と、もうすぐ私の婿となる若いその方は、お座敷の、低いテーブルを挟んで、まずは、お茶を、しずかにいただきました。

——若いその方は、お茶碗を、両手で、低く、お預かりになりました。

そして、しばらく、その湯気を、おだやかに、見つめていらしたあと、ぽつりと、こうおっしゃられたのです。

「お父さまの、ご職業のことで、娘さんから、伺いました。目には見えないものを、お見つけになる、お仕事だと」

——私は、しばらく、その若い方のお言葉の前で、何もお答えすることが、できませんでした。

ふだん、ご一緒にお食事を、お囲みしている席で、若いその方は、決して、ご自分の側から、私の仕事のことを、お尋ねくださったことが、ありませんでした。

しかし、この若い方は、たった、二人だけになった、その日のたった一度のお食事の、ちょうど、いちばん最初のお茶のひと口の前で——、ぽつりと、しかし、確かに、私の仕事の、いちばん大切な芯の部分を、ご自分から、お尋ねくださったのです。

私は、ゆっくりと、こうお答えしました。

「ええ。看板にも、値札にも、決して書かれることのない、けれども、お店の奥に、確かに息づいている、何かを、見つけ出すという、たぶん、それだけのことを、ずっと、続けてきております」

若いその方は、深く、深く頷きました。

そして、何もお答えにはなりませんでした。

ただ、しばらく、お茶碗の湯気を、また、おだやかに見つめていらしたあと、ふと、視線を、カウンターの奥の店主の焼き場のほうへとお向けになりました。

そして、若いその方は、もう一度、低く、こうつぶやかれたのです。

「……あの、ご店主さまの、串の並べ方も、そういう、目には見えないもの、なのでございましょうか」

——その瞬間、私の中で、何かが、深く、しずかに、満ちていきました。

私は、ただの一度も、若いその方に、自分の仕事の、その「目には見えないものを、見つけ出す」というお話しの中身を、これ以上、ご説明、申し上げてはおりません。

しかし、若いその方は、たった今、自分のお茶を、両手で、低く、ゆっくりと飲んでいらした、そのほんの数分の間に——、ご自分から、店主の焼き場のほうへと、視線を向け、そして、八本の串の、見事に均等な並び方の中に、確かに、ある一つの、目には見えない「規律」が、宿っていることに、ふっと、ご自分の側から、気がついていらしたのです。

——この若い方は、ものを、見ていらっしゃる方なのだ。 ——この若い方は、目には見えないものに、ご自分から、お気持ちを、お向けになることの、お出来になる方なのだ。

私は、その瞬間、もうすぐ私の娘の伴侶となるこの若い方の、いちばん大切な、心の芯の部分を——、お会いしてから半年、ご一緒したお食事の席を、何度も重ねながらも、ようやく、その日、はじめて、確かにお見せいただいた、その気がしたのです。

しばらくして、店主が、ご自分の手で、両手のひらに、二つのお重を、しっかりとお支えになって、お座敷へと、ゆっくりとお運びになっていらっしゃいました。

——お重を、女将に運ばせていらした、のでは、ありませんでした。 ——ご自分の手で、二つのお重を、お運びくださっていらした、のです。

そして、店主は、まず、私と若いその方の、ちょうど、お二人の真ん中の畳の上に、両手で、二つのお重を、ぴたりと、同時に、お置きになりました。

——どちらが先、どちらが後、では、ありませんでした。

ご自分の両手のひらが、ちょうど、同じ瞬間に、二つのお重を、畳の上へと、お置きになるように——、店主は、ご自分の身体の動きを、寸分の差もなく、揃えていらしたのです。

そして店主は、目を、わずかに伏せたまま、お二人のあいだに、ちょうど、深く、深く頭を下げ、こう、低くおっしゃられたのです。

「本日のお食事が、お二人の、これから結ばれてゆかれる、長いご縁の、いちばん初めの一献と、なりますように、心を込めて、お焼きいたしました」

——「ごゆっくり、お召し上がりください」では、ありませんでした。 ——「お祝い事、おめでとうございます」でも、ありませんでした。

「お二人の、これから結ばれてゆかれる、長いご縁の、いちばん初めの一献と、なりますように」——。

そのひとことの中に、店主は、まだ、お互いに「家族」になる前の、いまの、ちょうど境目の二人の方の、これから先、何十年もの長い、長い、ご縁のいちばん最初の、たった一献の、お重の上の鰻を、確かに、お焼きしたのだ、と——、深い、深い敬意を、込めていてくださっていたのです。

——これが、「新しいご縁を結ぶ手への礼節」でした。

毎日、何十膳、何百膳もの、お重を、お焼き、お運びになっていらっしゃる店主。

それは、彼にとって、もう、何万回と、くりかえしてきた、極めて日常的な所作のはずです。

しかし、その何万回目の所作を、まるで、初めての、たった一献の、たった二人のお重のように——、まだ、お互いに「家族」にはなっていない、ある二人の方が、いま、まさに、新しいご縁を、おたがいの手で、しずかに結ばれてゆこうとしていらっしゃる、その繊細な境目を、無言のうちに、二つのお重を、ご自分の両手で、寸分の差なく、ぴたりと同じ瞬間に、お運びくださる、その所作の中に込めて——、深い、深い敬意を、お渡しになる。

そして、若いその方は、お重の蓋を、両手で、低く、ゆっくりとお開けになりました。

そして、お箸を、両手のひらで、ふんわりと、お預かりになり——、ご自分が先には、決して、お召し上がりにはならず——、ちょうど、私が、お箸を取り、ひと口めをいただくのを、しずかにお待ちくださっていらしたのです。

そして、私が、ひと口めをいただいた、その瞬間に、はじめて、若いその方は、ご自分のお箸を、お重に、おだやかに運ばれました。

——お腹が、空いていらっしゃるだろうに。 ——一度も、こちらに、せかすそぶりは、お示しに、ならなかった。

そのささやかな所作の中に、私は、もう一度、この若い方の、いちばん芯のお人柄を、はっきりと、お預かりさせていただいたのです。

私たちは、しばらく、しずかに、店主のお焼きの一献を、ご一緒に、いただきました。

そして、お食事が、ちょうど、終わりに近づいた頃。

私は、お茶を、もう一杯、ご一緒にいただきながら、若いその方に、ゆっくりと、こうお伝えしました。

「娘のこと、どうぞ、これからも、よろしくお願いいたします」

若いその方は、深く、深く、お辞儀をなさり、ゆっくりと、こうお答えくださいました。

「私のすべての、お預かりできるかぎりの、ささやかな力で、お守りいたします」

——その、慎ましい、しかし、確かに揺るぎない、ひとことの中に、もうすぐ私の娘の伴侶となる若い方の、いちばん芯の、誠実な決意が、確かに宿っているのを、私は、はっきりと、感じたのです。

私たちは、引き戸を、ゆっくりと引いて、五月の下旬の、初夏の昼下がりの路地に、再び戻りました。

街路樹の若葉は、その昼下がりの陽差しの中で、いちばんの濃い緑のまま、初夏の風に、ふわりと揺れていました。

——若いその方と私とは、もう、お互いに「家族」では、まだ、ありません。

しかし、たった今、九十年の老舗の鰻屋の、店主のお焼きの、一膳のお重の上で、私たち二人のあいだの、見えない、しかし確かに、ひと筋のご縁が、ふっと、結ばれはじめたのを、私は、はっきりと感じていました。

——鰻屋とは、ただ、鰻を、焼き、お渡しする場所では、ない。 ——鰻屋とは、まだ、お互いに「家族」になる前の、ちょうど境目の二人の方の、これから先、何十年もの、長い、長いご縁の、いちばん初めの一献を、店主のひと巡りの目の前で、しずかに、確かにお焼き続けてくださる場所だったのです。

vibes は、目には見えません。

しかし vibes は、こうして、たった二つのお重の上の、店主の両手のひらの、寸分の差のない置き方の中にすら、店主の何十年もの所作の重みとともに、確かに織り込まれ、もうすぐ「家族」となる二人の方の身体の、いちばん芯のところに、ふわりと、しずかに染み込んでいく。

——空気は、まだ、お互いに「家族」にはなっていない、ちょうど境目の二人の方の身体に、これから結ばれてゆく、長いご縁の、いちばん初めの一献の温もりを、そっと、お預けしてしまう。

それこそが、看板にも、値札にも、決して書かれることのない、町外れの老舗の鰻屋という店の、最も深い、最も静かな「透明な資産」だったのだ——。

私は、来月の十五日には、もう、私の家族となる、目の前のこの若い方とともに、五月の下旬の、もうすぐ夏の気配を含み始めた、初夏の昼下がりの路地を、二人で、ゆっくりと、歩きはじめながら、ようやく、気づいたのです。

——勝田耕司

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