五月の下旬のある火曜日の朝、午前九時十分のこと。
初夏のやわらかな朝の光が、街路樹の若葉を、一枚、一枚、すきとおるように明るませはじめた、ちょうどその時刻。
私は、午前中のアポイントまでの、ぽっかりと空いた一時間ほどを抱えながら、いつもの大通りから二本だけ路地のほうへと外れた、古い住宅街の一角を、ゆっくりと歩いていました。
——その朝、私がある一軒の海苔屋を訪ねようと思い立ったのには、ささやかな、しかし、確かな理由がありました。
きっかけは、先週のある朝のことでした。
私は、家の食卓で、いつもの朝食を、いただいていました。
熱々の白米。 味噌汁。 小さな鉢の、ひじきの煮物。 そして、薄い、小皿の上の、二切れの、海苔。
私が、その二切れの海苔のうちの、一枚を、お箸でつまみ、まだ湯気の立つご飯の上に、ふんわりと載せた、その瞬間——、私はふと、ある事実に気がついたのです。
——この海苔の、香りが、薄い。
私はしばらく、そのままお箸を止めて、その薄い香りの海苔を、じっと見つめていました。
朝食の海苔は、もう何年も、近くのスーパーの棚から、無造作に買ってきた、ごく普通の海苔でした。
決して、まずいものでは、ありませんでした。
しかし、その香りは、いつのまにか、ご飯の白さに、わずかに、しかし、確かに、負けはじめていたのです。
——もうすぐ、娘が、家を出てゆく。
私はその朝、ふと、そう、思いました。
私たち親子三人で、この食卓を囲める朝は、もう、十回ほどしか残っていないのです。
その残りの何回かの朝食を、これまでと、何ひとつ変えずに、いつもの薄い海苔のまま、すませてしまっていいのだろうか——。
そう、私はその朝、ぽつりと、考えたのです。
そして、頭の片隅に、ある一軒の、町外れの老舗の海苔屋のことが、ふと、よみがえってまいりました。
もう十五年ほど前のこと、亡き祖父の三回忌の法事の引き出物として、母が、その店から、上質の海苔を、ひと折、お選びになっていたのです。
その日の夜、私は、家でその海苔を、初めて口にしました。
そのとき、私は、海苔というものが、こんなにも深い、深い香りを、ご飯のひと口の中に、しずかに広げてくれるものだったのか、と、しばらく、お箸を止めて、息をのんだのです。
そしてその先週の朝、ふと、その十五年前の、ひと口の深い香りが、私の中に、もう一度、ありありと、よみがえってきたのです。
——明日にでも、あの海苔屋に、寄ってみよう。
そう、私はその朝、心に決めていたのです。
そして、その火曜日の朝。
私は、もう十五年ほど、その存在は、ずっと知りながらも、自分の足では訪ねたことのなかった、町外れのある一軒の老舗の海苔屋へと、自然に、足を向けていたのです。
商店街の路地の、ちょうど突き当たり。
私は、磨き込まれた木の引き戸の上に、深い藍色の地に、白く「海苔」とたった二文字、染め抜かれた、年代物の暖簾が、初夏のやわらかな朝の風にふわりと揺れている、ある一軒の店の前に、立っていました。
開業から、優に百年は、超えているのでしょう。
私は引き戸の取手にそっと手をかけました。
引き戸が、長年使い込まれた木の、低く澄んだ音を立てて、ゆっくりと横へ滑った瞬間。
私を包み込んだのは、初夏の朝の路地の、若葉の薫りとは、まったく種類の違う、深く、しっとりと、そして、どこまでも芳醇な、ある——朝、店頭で、ひと炙りされたばかりの上質の海苔の、すこし磯臭く、しかし、決して生臭くはない、深く澄んだ磯の香りと、桐の引き出しの中で、長年、しずかに、しずかに眠ってきた、何百枚もの海苔の、紙のような、ほのかに乾いた匂いと、そして、長年、何千、何万人もの方々の、朝のご飯のひと口のために、ひと枚、ひと枚と、丁寧にお預かりされ続けてきた、その「海と朝の食卓との場」そのものの、おだやかな気配とが、ひとつに溶け合った、芳醇で、しかし、極めて静謐な、ひとつの空気の厚みでした。
そこに漂っていたものは、もはや、ただの「海苔屋の匂い」では、ありませんでした。
それは、何千、何万人もの方々の、毎朝、毎朝の食卓の上の、たった、ひと口、ふた口の、ささやかなご飯の上のひと切れの海苔を、この店の中で、ひと枚、ひと枚、丁寧にお預かりされ続けてきた、その「無数の、毎朝のひと口との出会い」そのものの気配だったのです。
そこには、ある一人の方の、毎朝、毎朝の食卓の、ささやかな、しかし、確かに、その方の一日のいちばん最初のひと口を、お支えするための、極めて謙虚で、しかし揺るぎない「規律」が、確かに、桐の引き出しの一枚、一枚の海苔の隙間に、息づいていたのです。
「いらっしゃいませ」
店の奥の、白木の長いカウンターの内側で、白いシャツの上に、藍色の前掛けを締めた、白髪のご高齢の店主が、両手の指先を、ご自分の白い布巾で、ごく軽くお拭きになりながら、私のほうを見て、深く頭を下げてくれました。
年齢はおそらく、もう七十代の半ばに近いでしょうか。
声の音量は決して強くありませんでした。
むしろ、店内に漂う、深く落ち着いた磯と海苔の気配を、わずかにも乱さない、絶妙な響き。
私は店内の中ほどに、ゆっくりと足を進めました。
そしてそこで、私は、息を、深く飲んだのです。
——店の奥の壁ぎわに、床から天井まで、整然と組み上げられた、何十段もの、桐の引き出し。
その桐の引き出しは、上下左右に、合計、六十段ほども、ぴたりと、寸分違わぬ間隔で、組み上げられていました。
そして、その一段、一段の引き出しの正面には、それぞれ、墨書きの、小さな白い和紙の札が、貼られていたのです。
「有明 一番草 三月」 「東京湾 富津 二月」 「瀬戸内 鳴門 一月」 「三河 渥美 二月」 「相模湾 葉山 三月」——。
私は、その小さな和紙の札を、上から下まで、ゆっくりと、目で追っていきました。
そして、ある、はっとする事実に気がついたのです。
——どの引き出しにも、ただひとつの「浜」と、ただひとつの「月」だけが、記されていた。
「有明 二月、三月」では、ありませんでした。 「東京湾 春」では、ありませんでした。
ただ、ひとつの引き出しに、ひとつの浜の、ひとつの月、すなわち、その月の、その浜の、その潮の、その日の、その漁師さんの手によって、いちどに摘み取られた、ただ、ひと回りの海苔だけが、しずかに、しずかに、しまわれていたのです。
——どの一枚の海苔も、決して、別の浜のものとは、混ぜられない。 ——どの一枚の海苔も、決して、別の月のものとは、混ぜられない。
ふつう、安価な海苔は、いくつもの浜のものを混ぜ、いくつもの月のものを混ぜて、安定した味と香りを、出すように、なっています。
しかし、この店の桐の引き出しの中には——、その「混ぜる」という、商いのうえでは、極めて、便利な手順が、ただの一度も、なされていなかったのです。
——その浜の、その月の、その日の漁の、ただひと回りの香りだけを、決して、何も混ぜずに、そのまま、お客様の朝の食卓へとお渡しする。
その、ささやかな、しかし、確かに揺るぎない、ひとつのお店の心構えこそが——、私が、十五年前、その夜のはじめてのひと口で、息をのんだ、あの深い、深い香りの、ほんとうの正体だったのです。
——たった、引き出しのひと札の中にも、規律が宿る。
これこそが、私の名づける「浜ごとの規律」でした。
そして店主は、私のほうを見て、こう、低く、お尋ねくださいました。
「ご家庭の、朝の食卓のための、ご一品で、いらっしゃいますか」
——「贈り物で、いらっしゃいますか」では、ありませんでした。 ——「何枚、お求めでいらっしゃいますか」でも、ありませんでした。
店主が、まず、いちばん最初にお尋ねくださったのは——、私が、お選びしようとしている海苔が、これから、いったい、「どんな食卓のひと口」になるのか、ということだったのです。
私は、ゆっくりと頷きました。
「ええ。来月、家を出てゆく娘の、最後の数回の、家での朝食のために、と」
店主は、深く、深く頷きました。
そして店主は、こう、ひとことだけ、低くお尋ねくださいました。
「お嬢さまは、ご飯を、よく噛んでお召し上がりに、なられますか。それとも、わりと、お早くお召し上がりに、なられますか」
——私は、その問いに、すぐには、お答えできませんでした。
「お嬢さまは、海苔の、何味がお好きですか」でも、「お嬢さまは、塩味、味付け、どちらが」でも、ありませんでした。
店主が、もっとも先に、お尋ねくださったのは——、娘が、ご飯を、どのような、リズムで、いただくか、ということだったのです。
私は、しばらく、思い出してみました。
そして、ゆっくりと、お答えしました。
「娘は、子どもの頃から、よく噛む子でした。ひと口、ひと口、しずかに、味わうように、お箸を、運ぶ子でした」
店主は、深く頷きました。
そして店主は、こう、おっしゃられたのです。
「では、瀬戸内の、鳴門の、一月のものを、お選びくださいませ」
「瀬戸内、ですか」
「ええ。よく噛んでお召し上がりになる方には、噛むほどに、奥行きが、ふくらんでくる、瀬戸内のものが、いちばん、お向きでございます。一気にお召し上がりになる方ですと、有明の、二月のもののほうが、ぱっと、香りが立ち、お向きなのでございますが」
——私の中で、何かが、しずかに満ちていきました。
これは、ただの「商品の薦め」ではありません。
これは、まだ、お顔も知らないある一人の若い女性の、毎朝の、ご飯を、噛む、そのささやかな、しかし、確かなリズムを、まるごと、お預かりした上で——、「そのリズムに、いちばん、ふさわしいひと枚」を、桐の引き出しの中から、選んでくださる、所作だったのです。
そして、店主は、その瀬戸内、鳴門、一月、と書かれた、引き出しのうちの、一段を、両手で、ゆっくりと、お引き出しになりました。
桐の引き出しの中からは、紺色の和紙にひと包み、ひと包みされた、薄い海苔の束が、整然と並んでいました。
店主は、その中から、ひとつの束を、両手で、低く、お取りになりました。
そして店主は、ご自分の手元の、小さな、四角い、年代物の炭火の小さな焼き網の前で——、その海苔の束の中から、ただ一枚だけを、お抜きになったのです。
そして、その一枚を、両手で、ご自分の鼻のすぐ前まで、ふわりと持ち上げ、しずかに、深く、ひと呼吸、お吸いになりました。
——海苔を、お確かめになる、のでは、ありませんでした。 ——海苔の品質を、お試しになる、のでも、ありませんでした。
店主は、これからお選びになる、その一枚が、いちばん最初のひと口で、お客様のご家庭の食卓の上に、どのような香りを、立ち上げるかを——、ご自分の鼻の、すぐ前で、もう一度、確かめてくださっていたのです。
そして、店主は、その一枚を、小さな焼き網の上に、両手で、ふわりと、横たえました。
そして、ご自分の右手で、ごく短い、ほんの数秒の、ひと炙りを、お加えになりました。
——海苔が、ぱりっと、店内の朝の空気の中で、わずかに、わずかに、緊張するような、深く、しかし、おだやかな磯の香りを、ふっと立ち上げた、その瞬間。
店主は、その焼き網から、両手で、その海苔を、すっと、お取りになりました。
——焦がさない。 ——しかし、しっかりと、香りを立たせる。
その、たった、数秒の、絶妙な「ひと炙り」の中に、店主は、これから、まだお会いになったこともない、ある一人の若い女性の、毎朝のご飯のひと口のために、何十年もの、ご自分の指先のリズムを、確かに、お預けくださっていたのです。
——これが、「毎朝のひと口への礼節」でした。
毎日、何十枚、何百枚もの海苔を、お選びになり、ひと炙りなさっていらっしゃる店主。
それは、彼にとって、もう、何万回と、くりかえしてきた、極めて日常的な所作のはずです。
しかし、その何万回目の所作を、まるで、初めての、たった一枚の、たった一人のお客様のひと口のように——、その方が、ご家庭の食卓で、ひと口、ひと口、ご飯を、しずかに、味わうように噛んでくださる、その目には決して見えない、毎朝のささやかなリズムへの、深い、深い敬意を、無言のうちに、ひと炙りの数秒の中に込めて、お渡しになる。
そして、私は、その瞬間、ようやく、はっきりと、分かったのでした。
——ひと口で、消えてゆくもの。
朝食の海苔は、たった、二切れ。 たった、数十秒で、口の中に消えてゆきます。
そして、その日のうちには、もう、忘れられて、しまうのです。
しかし——、この店主の所作の中には、まさに、その「ひと口で、消えてゆくもの」のために、何十年もの、桐の引き出しの中の、たった、ひと浜、ひと月の海苔と、たった、数秒の、絶妙なひと炙りの所作のすべてが、惜しみなく、お注がれていたのです。
——人生の、ほんとうにたいせつなものは、決して、いつまでも残るものの中だけにあるのではない。 ——むしろ、毎日、ひと口、ひと口、口の中に消えてゆく、ささやかなものの中にこそ、それを支えてくれている、いちばん深い、いちばん静かな、人の手の重みが、確かに、息づいているのだ。
その、目には、ほとんど見えない真実を——、私はその朝、桐の引き出しと、たった一枚の海苔のひと炙りの中で、ようやく、はっきりと、お預かりしたのです。
店主は、その瀬戸内、鳴門、一月の海苔を、十枚、丁寧に、紺色の和紙でお包みになり、その上から、桐の薄い小箱に、ふんわりとお納めくださいました。
そして、私の両手のひらに、その包みを、低く、お渡しくださいました。
私は、深く深く頭を下げ、引き戸を、ゆっくりと引いて、五月の下旬の、初夏の朝の路地に、再び戻りました。
街路樹の若葉は、その朝の光の中で、一枚、一枚、すきとおるように、明るく揺れていました。
そして、来月の二十日の朝までに、もう、十回ほどしか残されていない、わが家の三人の食卓の朝のひと口、ひと口の上に——、瀬戸内の、鳴門の、一月の、ある日の、ある漁師さんの手の、深い磯の香りが、これから、しずかに、しずかに、立ち上るのでしょう。
そして、その香りを、娘は、ひと口、ひと口、しずかに噛みながら、何も知らずに、家を出てゆきます。
——でも、それで、いいのです。
ひと口で、消えてゆくものは、消えてゆきます。
しかし、その「消えてゆくものを、ていねいにお支えしてくださった、何十年もの誰かの手の重み」だけは——、消えた後も、確かに、娘の身体の、いちばん深いところに、しずかに、しずかに染み込んで、これからの、すべての朝の食卓を、見えないところで、お支えし続けてくれるのです。
——海苔屋とは、ただ、海苔を、お渡しする場所では、ない。 ——海苔屋とは、毎朝、毎朝、口の中で、たった、数十秒で消えてゆく、ささやかなひと口の中にこそ、何十年もの、見えない人の手の重みが、しずかに、しずかに、宿っていたのだという、その、いちばん静かで、いちばん確かな真実を、たった一枚の、ひと炙りの海苔の中に、確かにお預けくださる場所だったのです。
vibes は、目には見えません。
しかし vibes は、こうして、たった一枚の、ひと炙りの海苔の、深い磯の香りの中にすら、店主の何十年もの所作の重みとともに、確かに織り込まれ、これから、家を出てゆく娘の、最後の何回かの朝のひと口の中に、しずかに、立ち上がり——、そして、家を出たあとも、何十年もの、新しい朝の食卓の上に、ふと、よみがえり続けてゆくのでしょう。
——空気は、毎日、口の中で、たった数十秒で消えてゆく、ささやかなひと口の中にすら、何十年もの誰かの手の重みを、しずかに、お預けしてしまう。
それこそが、看板にも、値札にも、決して書かれることのない、町外れの老舗の海苔屋という店の、最も深い、最も静かな「透明な資産」だったのだ——。
私は、桐の小箱を、両手で、低く、しっかりと抱えながら、五月の下旬の、もうすぐ夏の気配を含み始めた、初夏の朝の路地の中で、ようやく気づいたのです。
——勝田耕司












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