透明資産を見つけよう

【透明資産を見つけよう】六月の夕暮れ、町の老舗の佃煮屋。釜に湧く「ひと泡の規律」と、灰汁をひと匙すくう所作という名の「明日の食卓を待つ方への礼節」

六月のある火曜日の夕暮れ、午後五時半のこと。

——その日は、もう、夕方の四時ごろから、ぽつ、ぽつ、と、しずかに、しずかに、降り続いていた、六月の小ぶりな雨が、午後五時ごろになって、ふっと、ふっと、空のいちばん高いところから、しずかに、しずかに、止みはじめた、ちょうどその時刻。

雲のすき間からは、もう、初夏の夕方の、淡い、淡い橙色のいちばん最後の陽差しが、街路樹の若葉の上に、ふんわりと、こぼれはじめていたのです。

——梅雨入りの、しずかな、しずかな夕暮れ。

私は、その日の午後のアポイントを終え、駅前の大通りから、ひと本だけ路地のほうへと外れた、古い住宅街の一角を、雨上がりの石畳のしっとりとした輝きの中を、ゆっくりと、家路へと、歩いていました。

——その夕暮れ、私が、いつもとは違う路地のほうへと、ふと、足を向けようと思い立ったのには、特に、はっきりとした理由は、ありませんでした。

ただ、雨上がりの、しっとりと淡い夕暮れの風の中に——、ふと、しずかに、しずかに、ある一本の細い路地のほうから、何か、深く、深く、深く、まろやかに、しっとりと、深い深い、お醤油と、ふんわりと甘い、お砂糖と、ほんのり、まろやかな、お味醂とが、ひとつに溶け合った、ふっくらと、深い深い、ほのかに、煮詰められた、煮詰められた、煮詰められた——、奥行きのある、深い深い、しずかな、しずかな匂いが——、ひと筋、ふんわりと、流れてきていたのです。

——梅雨入りの、しずかな夕暮れの路地の空気の中に、ふと、深く、深く、深く、煮詰められた、ふっくらと、しずかな匂いが、ひと筋、流れてくる、というのは、まったく不思議なことでした。

——あの、深く、深く、深く煮詰められた、しずかな匂いの先に、どんな店があるのだろう。

私はそう思い、ひと本だけ路地のほうへと、ゆっくりと足を向けたのです。

そして、いくつかの路地を曲がった、その先で——、私は、ある一軒の、小さな店の前に、立っていたのです。

——佃煮屋。

商店街の路地の、ちょうど突き当たり。

その小さな店の、磨き込まれた木の引き戸は——、もう、すでに、ほんのり、半分ほど、横へとお開けになっていて、その引き戸のすき間からは——、しずかに、しずかに、深い、深い、ほのかに琥珀色がかったお行灯の灯りが、ふんわりと、こぼれていたのです。

そして、その引き戸のすぐ上の鴨居のところには、深い、深い、ほのかに焦げ茶色の地に、白く「佃煮」とたった二文字、染め抜かれた、年代物の暖簾が、雨上がりの、しっとりとした夕暮れの風の中で、ふんわりと揺れていました。

開業から、優に百年は、超えているのでしょう。

私は引き戸の取手にそっと手をかけました。

引き戸が、長年使い込まれた木の、低く澄んだ音を立てて、ゆっくりと横へ滑った瞬間。

私を包み込んだのは、雨上がりの夕暮れの路地の、しっとりとした、ほのかに淡くまろやかな風とは、まったく種類の違う、深く、深く、しっとりと、しかし、決して重くはない、ある——もう、何時間と、しずかに、しずかに、深く深く煮詰められ続けてきた、ふっくらと、まろやかな、深い深いお醤油の匂いと、ふっくらと、ほのかに甘い、しずかな、しずかなお砂糖の匂いと、ほんのり、まろやかな、しなやかなお味醂の匂いと、そして、長年、何千、何万釜もの佃煮が、職人の指先と、釜と、火とのあいだで、ひと時、ふた時と、しずかに、しずかにお煮詰められ続けてきた、その「ささやかなひと壺の、明日への場」そのものの、芳醇で、しっとりと落ち着いた、煮詰めの気配とが、ひとつに溶け合った、深く、しかし、極めて、しずかな、ひとつの空気の厚みでした。

そこに漂っていたものは、もはや、ただの「佃煮屋の匂い」では、ありませんでした。

それは、何千、何万のひと粒、ひと粒の、ある一匹の、ささやかな小魚や、ある一筋の昆布や、ある一片の椎茸や、ある一つの蕗のひと切れや——、その、ひとつ、ひとつの、ささやかなひと粒が——、もう、何時間と、深く深く、ふっくらと、ほのかに琥珀色がかった、お醤油とお砂糖とお味醂との中で、しずかに、しずかに、ご自分のいちばん芯のところまで、お染み入れていただきながら——、これから、ある一人の方の、明日からの、ご自分のお家の冷蔵庫の、ちいさな、ささやかなお壺の中で、何日も、何週間も、しずかに、しずかにお待ちになる、その「ふた付きのひと壺の場」を、確かにお預かりするための、極めて謙虚で、しかし揺るぎない「規律」が、確かに、深い深い琥珀色がかったひと粒、ひと粒の中に、息づいていたのです。

「いらっしゃいませ」

店の真ん中の、磨き込まれた檜の長いカウンターの内側で、深い藍色の作務衣の上に、白い割烹着を重ねた、白髪のご高齢のご店主が、両手の指先を、ご自分の白い手ぬぐいで、ごく軽くお拭きになりながら、私のほうを見て、深く頭を下げてくれました。

年齢はおそらく、もう七十代の半ばに近いでしょうか。

声の音量は決して強くありませんでした。

むしろ、店内に漂う、深くしっとりと、深く煮詰められた、まろやかな気配を、わずかにも乱さない、絶妙な響き。

——そして、ご店主のさらに奥の、磨き込まれた古い石組みの、長い、長い、火床の上には——、合計、五つの、ふっくらとした古い銅の釜が、しずかに、しずかに、ご自分のお仕事を、ぴたりぴたりと、お続けになっていらしたのです。

私は店内の中ほどに、ゆっくりと足を進めました。

そしてそこで、私は、息を、深く飲んだのです。

——店の奥の、火床の上の、ふっくらとした古い銅の、五つの釜。

それぞれの釜の中には——、まったく違うひと粒、ひと粒の、ささやかな佃煮の素材が、しずかに、しずかに、ふっくらと、ほのかに琥珀色がかったお醤油とお砂糖とお味醂との中で、お煮詰められの途中で、ふっくらと、横たわっていらしたのです。

——いちばん手前の釜には、深い深い、しなやかな小ぶりの白魚が。
——その隣の釜には、ふっくらとした、しなやかな昆布の細切れが。
——さらに隣の釜には、ふっくらとした、しずかな椎茸のひと粒、ひと粒が。
——さらに奥の釜には、深く深く、しずかなアサリのひと粒、ひと粒が。
——そして、いちばん奥の釜には、ふっくらとした、青々と、しなやかな蕗のひと切れ、ひと切れが——。

そして驚くべきは——、その五つの釜の、それぞれの中で——、ふっと、しずかに、しずかに、立ちあがる、ほんの、ほんの小さな、ささやかな、ひとつ、ふたつ、みっつの、お醤油の煮詰めの泡が——、寸分のずれもなく、すべて、まったく同じ大きさで、まったく同じ高さで、まったく同じ間隔で、ぴたりと、お立ちあがり、ふっと、しずかに、お消えになっていらしたのです。

——白魚の釜の泡も。
——昆布の釜の泡も。
——椎茸の釜の泡も。
——アサリの釜の泡も。
——蕗の釜の泡も。

それぞれの釜の中身は、まったく違うのに——、その「ふと、立ちあがる、ささやかな、ひと泡、ひと泡」の、大きさと、高さと、間隔と、お消えになる速さとが——、すべて、寸分のずれもなく、ぴたりと、お揃いになっていらしたのです。

——どの釜も、決して、別の釜と、ご自分の煮詰めの強さを、競わない。
——どの釜も、決して、別の釜より、わずかも、強い泡を、ぐらぐらと、お立てになることが、ない。

ただ、しずかに、しずかに、おだやかに——、まったく対等な、しずかな、しずかな、ささやかなひと泡を、ふっと、お立てになり、ふっと、しずかに、お消えになっていらしたのです。

——たった、釜の中の、ふと、立ちあがる、ささやかなひと泡の、寸分のずれもない大きさと間隔の中にも、規律が宿る。

これこそが、私の名づける「ひと泡の規律」でした。

そして、ご店主は、ゆっくりと、ご自分の作業台の前へとお戻りになりながら、私のほうを見て、こう、低くおっしゃられたのです。

「いちばん手前の白魚の釜、ちょうどいま、灰汁が、ひと層、ふっと、お浮きあがるところでございます。少し、お失礼いたします」

——私は、深く頷きました。

そして、ご店主は、ご自分の右手の、長い、しなやかな、ほっそりとした、白木の柄のついた、ふっくらとした、丸い、小さな匙を、両手の指先で、ふんわりとお取りになりました。

そして、しずかに、しずかに、いちばん手前の、白魚の釜のところへと、お向かいになりました。

そして、ご店主は——、何度か、深く、しずかに、ご自分の呼吸を、お整えになっていらしたのです。

そして、ふっと、息を、お止めになりました。

そして、その瞬間。

ご店主は、ご自分の右手の、ふっくらとした白木の匙を、寸分も急がず、しなやかに、ふんわりと、釜の表面の、ふと、しずかに、しずかに浮き上がっていらした、ほんの薄い、薄い、深い深い琥珀色の灰汁の層の、ちょうどいちばん上のところに、お当てになっていらしたのです。

そして、その匙のさきは——、釜の表面の灰汁を、ほんの、ほんの、わずかに、ふっくらと、ふんわりと、なめらかにすくい上げていらしたのです。

そして、その、たった、ひと匙の灰汁を——、ふっと、釜の脇の、小さな白磁の小皿の上に、しずかに、しずかに、お移しになりました。

そして、ご店主は、もう一度、釜の表面を、深く、深く、しずかにお見つめになり、その匙を、ふたたび、ふっくらと、釜の表面の、ふと浮き上がる、新しい灰汁の層に、お当てになっていらしたのです。

——灰汁を、ただ、お取りになった、のでは、ありませんでした。
——煮詰めを、ただ、ご整えになっていらした、のでも、ありませんでした。

ご店主は、その、たった、ふっと、ひと匙の灰汁すくいの中で——、いま、まさに、釜の中の、ある一粒の白魚が、ご自分のいちばん芯のところで、まろやかな、深い深い、ほのかに琥珀色がかった、お醤油とお砂糖とお味醂とのご対話を、もう、ひと刻、深めようとなさっていらした——、その「ひと粒のお対話のしずかなお時間」を、決して、灰汁の、ほんのわずかな、深い、深い苦みで、お濁らせになることがないように——、確かに、ご自分の白木の匙の、たった、ひと匙の中に、お預けくださっていらしたのです。

——これが、「明日の食卓を待つ方への礼節」でした。

毎日、何釜もの佃煮を、しずかに、しずかにお煮詰めになり続けていらっしゃるご店主。

それは、彼にとって、もう、何万回と、くりかえしてきた、極めて日常的な所作のはずです。

しかし、その何万回目の所作を、まるで、初めての、たった一粒の、たった一匹の白魚の、ご自分のいちばん芯のところで深まる、お醤油とお砂糖とお味醂とのご対話のように——、その一釜のひと粒、ひと粒が、これから、誰のお家の冷蔵庫の、ちいさな、ささやかなふた付きのお壺の中で、何日、何週間と、しずかに、しずかにお待ちになり、誰のお家の、明日の、ご自分のお家のお食卓の、いちばん端っこの、ささやかなひと添えとして、しずかに、しずかにお迎えされていくのかを、確かに、思い描いた上で——、その「明日の、お家のお食卓を、しずかに、しずかにお待ちくださっている、お一人、お一人」への、深い、深い敬意を、無言のうちに、ご自分の白木の匙の、たった、ひと匙の灰汁すくいの中に込めて、お整えになる。

そして、私は、その瞬間、ようやく、はっきりと、分かったのでした。

——人の一日の中の、本当にたいせつな「明日」。

それは、決して、明日のいちばん大きなご予定の中だけにあるのでは、ありません。

むしろ、明日の、ご自分のお家のお食卓の、いちばん端っこの、ささやかなひと壺の、ふたをふっと、ご自分の指先で、お開けになる、その「ささやかな、しかし、確かに繰り返される、明日の小さな所作」の中にこそ——、もう、何時間も前の、まったくお会いになったこともない、ある一人の佃煮屋のご店主の、ある夕暮れの、たった、ひと匙の灰汁すくいの所作の重みが、しずかに、しずかに、お流れになっていらしたのです。

そして、その「明日の、ご自分のお家のお食卓の、いちばん端っこの、ささやかなひと壺の、ふたを、ふっとお開けになる」、ささやかな、しかし、確かな所作のために——、誰かが、毎日、毎日、しずかに、しずかに、ご自分の白木の匙の、たった、ひと匙の中に、何十年もの所作の重みを、お預けくださっていた。

私は、ご店主から、ひと壺の佃煮を、お選びさせていただきました。

ご店主は、その、ふっくらとした深い藍色の、小さな素焼きの壺の中に、たった今、白魚の釜から、ひと匙、ふた匙、み匙と、ふんわりと、しずかにすくい上げてくださった、深い深い、まろやかな琥珀色の白魚の佃煮を、しずかに、お入れになり——、その壺に、ぴたりとお合うふっくらとした蓋を、ふんわりと、お載せになりました。

そして、その壺を、薄い、淡い白の和紙でふんわりとお包みになり、その上から、藁の紐で、ふっくらとお結びくださいました。

そして、私の両手のひらに、その、しっとりとした包みを、低く、お渡しくださいました。

「明日の朝の、お一杯の白いお米のいちばん上に、ほんの、ほんの少しだけ、ふっとお添えくださいませ」

——「明日の朝の、お一杯の白いお米のいちばん上に、ほんの、ほんの少しだけ、ふっとお添えくださいませ」。

そのひとことの中に、ご店主は、まだ、お会いになったこともない、私の明日の朝の、ご自分のお家のお食卓の、お一杯のお米のいちばん上の、ささやかな瞬間を——、確かに、ふっくらとした、ご自分のお手の中の、たった、ひと匙の灰汁すくいの所作の中で、深く、しずかに、お想いくださっていらしたのです。

私は、深く深く頭を下げ、引き戸を、ゆっくりと閉め直して、六月の、もう、すっかりと夕暮れの、淡い、淡い藍色の気配が、街全体に、ふっくらとお染め始めていらした、しずかな路地に、再び戻りました。

街路樹の若葉は、まだ、雨上がりの、しっとりとした水滴を、いくつも、いくつも、葉の縁に、お抱きになりながら、夕暮れの淡い橙色のいちばん最後の光の中で、ふんわりと揺れていました。

そして、私の両手のひらの中の、しっとりとした白い和紙の包みからは——、まだ、たった今、ご店主の白木の匙から、しずかに、しずかにお流れになっていらした、深い深い、まろやかな琥珀色のお醤油とお砂糖とお味醂との、ふっくらと、しずかな、まろやかな匂いが、しずかに、しずかにお流れになり続けていたのです。

——佃煮屋とは、ただ、ささやかなひと粒を、お煮詰めになる場所では、ない。
——佃煮屋とは、ある一人の方の、明日の、ご自分のお家のお食卓の、いちばん端っこの、ささやかなひと壺の、ふっと、ふたをお開けになる「ささやかな、しかし、確かに繰り返される、明日の小さな所作」のために——、ご自分の白木の匙の、たった、ひと匙の灰汁すくいの中に、何十年もの所作の重みを、しずかに、しずかにお預けくださる場所だったのです。

vibes は、目には見えません。

しかし vibes は、こうして、たった、ひと壺の白魚の佃煮の、ふっと、ひと粒の中にすら、ご店主の何十年もの所作の重みと、五つの釜のひと泡、ひと泡の、ぴたりと寸分のずれもない、対等な、しずかなお対話の重みとが、ともに織り込まれ——、これから、ある一人の方の、明日の朝の、お一杯のお米のいちばん上の、ささやかな瞬間の中に、しずかに、しずかにお流れになり続けてゆくのでしょう。

——空気は、ある一人の方の、明日の朝の、ご自分のお米のいちばん上の、ささやかな瞬間の中にすら、まったくお会いになったこともない、ある一人の佃煮屋のご店主の、ふと、ひと匙の灰汁すくいの所作の重みを、しずかに、しずかにお預けしてしまう。

それこそが、看板にも、値札にも、決して書かれることのない、町の老舗の佃煮屋という店の、最も深い、最も静かな「透明な資産」だったのだ——。

私は、両手のひらの中の、まだ、しっとりとあたたかい、ふっくらとした白魚の佃煮のひと壺を、しっかりとお抱きしながら、六月の、もう、すっかりと夕暮れの淡い藍色に染まりはじめた、しずかな路地の中で、ようやく気づいたのです。

——勝田耕司

関連記事

  1. 透明資産を見つけよう

    【透明資産を見つけよう】路地裏のパン屋から漂う香りは、きっと「幸せへの予感」そのものだ

    その路地に入った瞬間、鼻腔をくすぐる柔らかな香りに、私は不意に足を…

  2. 透明資産とは?

    【透明資産を見つけよう】金曜日の午後に残っている余力こそが、その会社の健全度を一番正直に映している

    金曜日の午後に残っている余力こそが、その会社の健全度を一番正直に映して…

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

  1. 透明資産とは?

    【透明資産を見つけよう】 退社時の「背中」が語るもの──誇りを持って帰る会社、疲…
  2. 透明資産とは?

    どのような体験でご満足いただくか。 それが明確であることがブランドの条件
  3. 透明資産を見つけよう

    【透明資産を見つけよう】真夜中のオフィスに灯る一筋の光。誰も見ていない場所で、誰…
  4. 透明資産を見つけよう

    【透明資産を見つけよう】六月の雨の朝、町外れの老舗の和蝋燭屋。竹串に並ぶ「ひと本…
  5. 透明資産とは?

    最大の課題「価格アップ」実現の条件は独自の透明資産を持ち、磨いていること
PAGE TOP