透明資産を見つけよう

【透明資産を見つけよう】六月の朝霧の早朝、町外れの老舗のお弁当屋。木箱に並ぶ「ひと折りの規律」と、梅干しをひと粒置く所作という名の「お昼の蓋を開ける方への礼節」

六月のある水曜日の早朝、午前五時半のこと。

——その日の早朝、街全体は、まだ、本格的な夜明けの前の、ふっくらと、しっとりと、白く、ふんわりとした、初夏の朝霧に、包まれていらしたのです。

街路樹の若葉も、街の家並みの屋根も、街灯の灯りも——、その、ふっくらとした、白い、しっとりとした朝霧の中で、ひとつ、ひとつ、まだ、はっきりとはお姿を、お見せにならない、ふんわりと淡いままで、しずかに、しずかに、お眠りになっていらしたのです。

——六月の梅雨入りの、しっとりと、白く、ふんわりとした朝霧の中。

私は、その日の早朝のお散歩の習慣で、ふんわりと白く包まれた住宅街の路地を、ゆっくりと、歩いていました。

——その朝霧の中、私が、いつもとは違う路地のほうへと、ふと、足を向けようと思い立ったのには、特に、はっきりとした理由は、ありませんでした。

ただ、その白い朝霧の中に——、ふと、しずかに、しずかに、ある一本の細い路地のほうから——、何か、深く、しっとりと、ふっくらと、湯気立つような、ほんのり甘く、ほんのり香ばしい、深い深い、新しい、新しい、炊きたてのお米の匂いと、ふんわりと甘く、しなやかに巻かれた卵焼きの匂いと、しずかに、しずかに、深く、深く、煮しめられた、まろやかな出汁とお醤油の匂いと、ほのかに、ほのかに、お塩に揉まれた青菜の匂いと——、まったく、街全体が、まだ、お眠りになっていらしたはずの、その朝霧の中に、不思議なことに、ひと筋、ふんわりと、流れてきていたのです。

——梅雨入りの、白い朝霧の中の、まだ、街全体が、お眠りになっていらしたはずの早朝に、ふっくらとした、お朝食の支度のような、ふんわりと温かい匂いが、ひと筋、流れてくる、というのは、まったく不思議なことでした。

——あの、ふっくらと、温かく、しっとりと、湯気立つような匂いの先に、どんな店があるのだろう。

私はそう思い、ひと本だけ路地のほうへと、ゆっくりと足を向けたのです。

そして、いくつかの路地を曲がった、その先で——、私は、ある一軒の、ささやかな、小さな店の前に、立っていたのです。

——お弁当屋。

商店街の路地の、ちょうど真ん中あたり。

その小さなお店の、磨き込まれた木の引き戸は——、もう、すでに、ほんのり、半分ほど、横へとお開けになり、その引き戸のすぐ脇からは——、ふっくらと、しっとりと、温かい湯気が、しずかに、しずかに、路地の朝霧の中へと、ふんわりと、立ちのぼっていたのです。

そして、その引き戸のすぐ上の鴨居のところには、深い、深い、ほのかに藍色がかった地に、白く「お弁当」とたった三文字、染め抜かれた、年代物の暖簾が、まだ、ほんのり、しっとりと、朝霧を含んだ風の中で、ふんわりと揺れていました。

開業から、優に八十年は、超えているのでしょう。

私は引き戸の取手にそっと手をかけました。

引き戸が、長年使い込まれた木の、低く澄んだ音を立てて、ゆっくりと横へ滑った瞬間。

私を包み込んだのは、初夏の朝霧の路地の、ほのかにひんやりとした空気とは、まったく種類の違う、深く、しっとりと、ふっくらと、ほんのり甘く、ほんのり温かい、ある——たった今、お釜の中で、しっとりと炊き上がったばかりの新しいお米の、湯気立つような、まろやかな匂いと、玉子焼きの、ふっくらとした、しなやかな甘い匂いと、深く深く、まろやかに煮しめられた、ひと切れの煮魚の、しっとりとした、深い深いお醤油の匂いと、青菜の、おだやかな、ほのかに苦みのある、清らかなお塩の匂いと、そして、長年、何百、何千の、ある一人の、毎朝、毎朝の、お一人、お一人の方の、お昼の弁当を、ご自分のお手のひらの中で、お整え続けてこられた、その「お一人の、お昼のお時間の場」そのものの、芳醇で、しっとりと落ち着いたお米と出汁と木の気配とが、ひとつに溶け合った、深く、しかし、極めて、ふっくらと、ささやかで、ふんわりとした、ひとつの温かさでした。

そこに漂っていたものは、もはや、ただの「お弁当屋の匂い」では、ありませんでした。

それは、何百、何千の、ある一人の方の——、もう、今日の昼の十二時に、ご自分のお仕事のお昼休みのほんの三十分の中で、ふっと、ご自分の手で、お弁当箱の蓋を、ふんわりとお開けになる——、その瞬間に向けて、まだ、夜の明けきらない早朝のうちから、しずかに、しずかに、ふっくらと、ふんわりと、お整えになり続けてこられた、その「無数の、ひと折りの、お昼の蓋との出会い」そのものの気配だったのです。

そこには、ある一人の方の、ご自分の今日の、お昼の十二時の、たった三十分のお昼休みの中で、ふっと、お一人、ひっそりと、ご自分の弁当箱の蓋をお開けになる、その瞬間に——、確かに、ふっくらと、ふんわりと、お温かさをお預けするための、極めて謙虚で、しかし揺るぎない「規律」が、確かに、木の折り箱のひと折り、ひと折りの中に、息づいていたのです。

「いらっしゃいませ。早うございます」

店の真ん中の、磨き込まれた檜の長いカウンターの内側で、白い割烹着の上に、深い藍色の前掛けを締めた、白髪のご高齢のご店主が、両手の指先を、ご自分の白い手ぬぐいで、ごく軽くお拭きになりながら、私のほうを見て、深く頭を下げてくださいました。

そして、ご店主のさらに奥には——、深い藍色のお召し物の上に、淡い藍色の前掛けを締めた、もう、お二人のご年配の方々——、たぶん、ご店主の奥さまと、もうお一人、ご店主のお姉さまかお妹さまでいらっしゃるだろうかと思われる方が、しずかに、しずかに、それぞれ、お米のお釜の前と、玉子焼きのお鍋の前に、お立ちになっていらしたのです。

——三人の早朝の所作。

しずかに、しずかに、お一人は、炊きたての新しいお米を、ふっくらと、しゃもじで、お混ぜになり——、もうお一人は、玉子焼きを、ふんわりと、お巻きになり——、そして、いちばん奥のご店主は、空っぽの木の折り箱を、ふっくらと、ご自分の作業台の上に、ぴたりぴたりとお並べになっていらしたのです。

声の音量は決して強くありませんでした。

むしろ、店内に漂う、深くしっとりと落ち着いたお米と出汁の気配を、わずかにも乱さない、絶妙な響き。

私は店内の中ほどに、ゆっくりと足を進めました。

そしてそこで、私は、息を、深く飲んだのです。

——ご店主の作業台の上に、整然と並べられた、何十もの、磨き上げられた、淡い、淡い、しっとりとした薄板の木の折り箱。

ご店主の長い作業台の上には、それぞれ、まったく同じ大きさの、淡い薄板の木の折り箱が、合計、二十数組、ぴたりと、寸分違わぬ間隔で、整然と並んでいらしたのです。

そして、それぞれの折り箱の中には——、合計、四つの仕切りのお部屋が、ぴたりと、寸分違わぬ大きさで、お切り分けられていたのです。

そして驚くべきは——、その二十数組の折り箱の、それぞれの、四つの仕切りのお部屋に、お入れになっていく、お一品、お一品の中身が——、寸分のずれもなく、すべて、まったく同じお位置に、まったく同じご分量で、まったく同じご角度で、ぴたりと、お並びになっていらした、ということでした。

——いちばん大きなお部屋には、ふっくらと、湯気立つような、新しい炊きたての白いお米が、ぴたりと、寸分の凹凸もなく、なめらかに、お入りになっていらした。

——いちばん右上のお部屋には、ふっくらと、しなやかに、巻かれた玉子焼きの、ちょうど三切れが、ぴたりと、寸分のずれもなく、お並びになっていらした。

——いちばん右下のお部屋には、深く深く煮しめられた、ひと切れのお魚と、ふっくらと炊かれた、ひと粒のひじきと、ふっくらと色づいた、ふた切れのお人参とが、ぴたりと、しずかに、お並びになっていらした。

——いちばん左下のお部屋には、お塩に揉まれた、ふっくらと青々とした青菜と、ふた切れの、深い色のお漬物とが、ぴたりと、しずかに、お並びになっていらした。

——二十数組のすべての折り箱の中で、まったく同じご分量、まったく同じお位置で。

決して、ある一つの折り箱だけ、玉子焼きが多めに——、ということは、ない。
決して、ある一つの折り箱だけ、お米が少なめに——、ということも、ない。

ひと折り、ひと折りのお弁当は——、ぴたりと、まったく、対等に、ふっくらと、お整えになっていらしたのです。

——たった、木の折り箱のひと折り、ひと折りの中の、ご分量とお位置の中にも、規律が宿る。

これこそが、私の名づける「ひと折りの規律」でした。

そして、ご店主は、いま、まさに、その日のいちばん最後の、二十数組目の折り箱の、いちばん大きなお部屋の、ふっくらとした新しい白いお米の、ちょうど真ん中の真ん中のところに——、ある最後の、ささやかな、しかし、確かなお一粒を、ふんわりと、お置きになる、その所作の途中で、いらしたのです。

ご店主は、ご自分の右手の、小さな白磁の小皿の中から、ご自分の指先の、いちばん細い、二本の指の先で——、ある、深い、深い、ふっくらと、しっとりとした、つやつやとした、お一粒の梅干しを、ふんわりと、お取り上げになりました。

そして、ご店主は——、何度か、深く、しずかに、ご自分の呼吸を、お整えになっていらしたのです。

そして、ふっと、息を、お止めになりました。

そして、その瞬間。

ご店主は、その梅干しのお一粒を、寸分も急がず、ふんわりと、しなやかに——、ふっくらとした、新しい白いお米の、ちょうど真ん中の真ん中の、いちばん高いところに、しずかに、しずかに、お置きになっていらしたのです。

——たった、ひと粒の梅干し。

しかし、その、お置きになった瞬間。

——その梅干しのお位置は。

二十数組の、ぜんぶの折り箱の、いちばん大きなお部屋の、ふっくらとしたお米の、ちょうど真ん中の真ん中の、いちばん高いところに——、寸分のずれもなく、ぴたりと、まったく、同じ場所に、お並びになっていらしたのです。

——梅干しを、ただ、お置きになった、のでは、ありませんでした。
——お弁当を、ただ、お仕上げになっていらした、のでも、ありませんでした。

ご店主は、その、ひと粒の梅干しの、お置きの中に——、これから、その折り箱が、ある一人の方の、お昼の十二時の、たった三十分のお昼休みの中で——、ご自分の指先で、ふっと、蓋を、ふんわりとお開けになる、その瞬間に——、ふっと、ご自分のお目に入る、ふっくらとした白いお米の、ちょうど真ん中の真ん中の、いちばん高いところに、深い、深い、ふっくらとした、しっとりとした、お一粒の朱色の梅干しが、ふっと、お一人をお迎えくださる、その「ささやかな、しかし、確かなお迎え」を——、確かに、ご自分の指先の、たった、ひと置きの中に、お預けくださっていらしたのです。

——これが、「お昼の蓋を開ける方への礼節」でした。

毎日、毎朝、何十組ものお弁当を、お整え続けていらっしゃるご店主とお家族の方々。

それは、彼らにとって、もう、何十万回と、くりかえしてきた、極めて日常的な所作のはずです。

しかし、その何十万回目の所作を、まるで、初めての、たった一組の、たった一人のお客さまの、ご自分の今日の、お昼の十二時のたった三十分のために——、その一組が、これから、誰のご自分のお仕事場の、誰のお昼休みの中で、ふっと、お一人で、お弁当箱の蓋を、ふんわりとお開けになるのかを、確かに、思い描いた上で——、その「ご自分のお昼休みの、たった三十分の蓋を、ふんわりとお開けくださる、お一人、お一人」への、深い、深い敬意を、無言のうちに、ご自分の指先の、たった、ひと粒の梅干しのお置きの中に込めて、お仕上げになる。

そして、私は、その瞬間、ようやく、はっきりと、分かったのでした。

——人の一日の中の、いちばん、ささやかな、しかし、確かに、たいせつな瞬間。

それは、決して、ご家族のいらっしゃるお家の食卓の、いちばん大きなご馳走の中だけにあるのでは、ありません。

むしろ、ご自分のお仕事場の、ご自分のお机の前で、お一人、ひっそりと、お弁当箱の蓋を、ふんわりとお開けになる、その「ご自分のお昼休みの、たった三十分の、ささやかな、しかし、確かなお一人のお時間」の中にこそ——、ふっくらとした、新しいお米の上に、しずかに、しずかに、お置きされた、ひと粒の朱色の梅干しが、ふっと、お一人を、ふんわりと、しずかにお迎えくださっていらしたのです。

そして、その「ご自分のお昼休みの、たった三十分のお一人のお時間」を、ふっくらと、お温かに、しずかに、しずかに、お支えくださっているのは——、まったくお会いになったこともない、ある一人のお弁当屋のご店主の、ある一日の、まだ、夜の明けきらない早朝の、たった、ひと粒の梅干しのお置きの、ささやかな、しかし、確かな所作の重みだったのです。

私は、ご店主から、お弁当のひと組を、お選びさせていただきました。

ご店主は、その、ひと組の折り箱を、薄い、淡い水色の紙でふんわりとお包みになり、その上から、藁の紐で、ふっくらとお結びくださいました。

そして、私の両手のひらに、その、ふっくらとあたたかいひと包みを、低く、お渡しくださいました。

「今日のお昼の十二時、ふっと、ふんわりと蓋をお開けくださいませ」

——「ふっと、ふんわりと蓋をお開けくださいませ」。

そのひとことの中に、ご店主は、まだ、お会いになったこともない、私の今日のお昼の十二時の、たった三十分のお昼休みの瞬間を——、確かに、ふっくらとした、ご自分のお手の中の、ひと粒の梅干しのお置きの所作の中で、深く、しずかに、お想いくださっていらしたのです。

私は、深く深く頭を下げ、引き戸を、ゆっくりと引いて、もう、しっとりと白い朝霧が、ふんわりと薄れはじめた、六月の早朝の路地に、再び戻りました。

街全体は、まだ、しずかに、しずかに、お眠りになりかけのままで——、もう、夜明けの淡い、淡い金色の光が、ふっくらとした朝霧の中を、しずかに、しずかに、お染め始めていらしたのです。

そして、私の両手のひらの中の、ふっくらとした淡い水色の薄紙の包みからは——、まだ、たった今、ご店主の指先から、お預けされたばかりの、しっとりと、湯気立つような、ふっくらと、温かいお米と出汁の気配が、しずかに、しずかにお流れになり続けていたのです。

——お弁当屋とは、ただ、お昼のお食事を、お渡しになる場所では、ない。
——お弁当屋とは、ある一人の方の、ご自分のお仕事場の、ご自分のお机の前で、お一人で、ふっと、お弁当箱の蓋を、ふんわりとお開けになる、その「たった三十分の、ささやかな、しかし、確かなお一人のお時間」を——、確かに、ご自分のお手の指先の、たった、ひと粒の梅干しのお置きの中に込めて、ふっくらと、しずかにお預けくださる場所だったのです。

vibes は、目には見えません。

しかし vibes は、こうして、たった、ひと折りの弁当箱の、お米の真ん中のひと粒の梅干しのお置きの中にすら、ご店主の何十年もの所作の重みと、お家族の方々の、まだ、夜の明けきらない早朝からの、ふっくらとしたお仕事の重みとが、ともに織り込まれ——、これから、ある一人の方の、ご自分のお昼休みの、たった三十分のお一人のお時間の中に、しずかに、しずかにお流れになり続けてゆくのでしょう。

——空気は、ある一人の方の、ご自分のお昼休みの、たった三十分のお一人のお時間の中にすら、まったくお会いになったこともない、ある一人のお弁当屋のご店主の、ふと、ひと粒の梅干しのお置きの所作の重みを、しずかに、しずかにお預けしてしまう。

それこそが、看板にも、値札にも、決して書かれることのない、町外れの老舗のお弁当屋という店の、最も深い、最も静かな「透明な資産」だったのだ——。

私は、両手のひらの中の、まだ、ふっくらとあたたかい、湯気立つようなひと包みを、しっかりとお抱きしながら、六月の、もう、朝霧がふんわりと薄れはじめ、淡い、淡い金色の夜明けの光が、しずかに、しずかにお染め始めた早朝の路地の中で、ようやく気づいたのです。

——勝田耕司

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