七月のある月曜日の夕立上がりの夕方、午後六時のこと。
——その日は、もう、七月のはじまりの、昼下がりに、ふっと、突然の夕立がお降りなさり——、その夕立が、ほんの三十分ほどで、ふっと、お止みくださり——、その夕立後の、ふっくらと、しずかな夕方。
——夕立後の、ふっくらと爽やかな、しっとりとした七月の夕方。
街路樹の若葉のひと枚、ひと枚は——、まだ、ふっくらとした夕立のひと滴、ひと滴を、葉の縁にお抱きになりながら——、ふっくらと、ふんわりと白く、しっとりと爽やかな、夕方の遅い光を、しっとりと身にまといながら、おだやかに揺れていらしたのです。
——七月のはじまりの、夕立上がりの、しっとりと爽やかな夕方。
私は、その日の午後のアポイントを終え、駅前の大通りから、ひと本だけ路地のほうへと外れた、古い住宅街の一角を、夕立後の、ふっくらと爽やかな光の中、ゆっくりと、家路へと、歩いていました。
——その夕方、私が、いつもとは違う路地のほうへと、ふと、足を向けようと思い立ったのには、特に、はっきりとした理由は、ありませんでした。
ただ、その、しっとりと爽やかな七月の夕立後の風の中に——、ふと、しずかに、しずかに、ある一本の細い路地のほうから——、何か、清らかな、清らかな、ふっくらと真新しい木綿の、ほのかに、ほのかに、糊づけのお仕上げをなさったばかりの、しっとりと爽やかな、ふっくらと優しい匂いと——、深い、深い、藍の染料の、ほのかにしっとりとした、爽やかなお匂いとが——、ひと筋、ふんわりと、流れてきていたのです。
——夕立上がりの、しっとりと爽やかな夕方の路地の空気の中に、ふと、ふっくらと真新しい木綿の、清らかな匂いと、深い藍の、しっとりと爽やかなお匂いとが、ひと筋、流れてくる、というのは、まったく不思議なことでした。
——あの、ふっくらと、しなやかな、清らかな木綿と、深い藍のお匂いの先に、どんな店があるのだろう。
私はそう思い、ひと本だけ路地のほうへと、ゆっくりと足を向けたのです。
そして、いくつかの路地を曲がった、その先で——、私は、ある一軒の、小さな店の前に、立っていたのです。
——和裁屋。
商店街の路地の、ちょうど突き当たり。
その小さな店の、磨き込まれた木の引き戸は——、もう、すでに、ほんのり、半分ほど、横へとお開けになっていて——、そして、その引き戸のすき間からは——、しずかに、しずかに、ふっくらと、しっとりと、深い深い藍色に染まった、ふっくらと爽やかな七月の夕方の灯が、ふんわりと、こぼれていたのです。
そして、その引き戸のすぐ上の鴨居のところには、深い、深い、深い深い藍色の地に、白く「和裁」とたった二文字、染め抜かれた、年代物の暖簾が、夕立上がりの、しっとりと爽やかな夕方の風の中で、ふんわりと揺れていました。
開業から、優に百年は、超えているのでしょう。
私は引き戸の取手にそっと手をかけました。
引き戸が、長年使い込まれた木の、低く澄んだ音を立てて、ゆっくりと横へ滑った瞬間。
私を包み込んだのは、夕立上がりの、しっとりと爽やかな夕方の風とは、まったく種類の違う、ふっくらと、しっとりと、清らかな、しかし、決して冷えきってはいない、ある——もう、何百年と、ご自分の畑のいちばん広い、いちばん澄んだところで、ふっくらと、しなやかに、お育ちになり続けてこられた、深い深い真新しい木綿の、ほのかに澄んだ、しっとりと清らかな匂いと、ふっくらと、しなやかに、ほのかに藍に染まった反物の、ほのかに爽やかな藍の匂いと、ふっくらと、ふんわりとした糊づけのお仕上げをなさったばかりの、ほんのり、ほのかに優しい糊の匂いと、そして、長年、何千、何万着もの浴衣が、和裁師の指先と、運針針と、鯨尺と、おもりとのあいだで、ひと針、ひと針と、ふっくらと、しなやかに、お仕立てになり続けてきた、その「ひと着の浴衣を、ひと夏の祭りの袖通しのために、ふっとお仕立てになる場」そのものの、芳醇で、しっとりと落ち着いた、木綿と藍と糊と針の気配とが、ひとつに溶け合った、ふっくらと、しっとりと、しかし、極めて、清らかな、ひとつの空気の厚みでした。
そこに漂っていたものは、もはや、ただの「和裁屋の匂い」では、ありませんでした。
それは、何千、何万着もの、ある一着の浴衣が——、もう、何百年と、ご自分の畑のいちばん広いところで、ふっくらと、しなやかにお育ちになっていらした木綿の、ほんの、ほんの一握りの繊維が——、ある日、ふっと、ある一人の方の、ご自分の、ふっと、ひと夏の祭りの、ふと、夕立後の、しっとりと爽やかな夕方の、ふと、ご自分のお家の玄関先で——、ふんわりと、お招きされ——、その方の、ご自分の、ふっと、ひと夏の祭りの、ふっと、いちばん最初の、ご自分の、ふっと、お一着の浴衣のひと袖目に——、ふっと、しずかに、しずかにお招きになる、その「ひと夏の祭りの、ふと、ひと袖目の浴衣との、しずかな、しずかなお対話のお時間」を——、ふっと、しずかに、しずかにお迎えくださるための、極めて謙虚で、しかし揺るぎない「規律」が、確かに、棚にお並びになった、ひと着、ひと着の浴衣の中に、息づいていたのです。
「いらっしゃいませ」
店の中央の、磨き込まれた檜の長い和裁台の前で、深い藍色の作務衣の上に、深い灰色のお襷を締めた、白髪のご高齢の和裁師が、両手の指先を、ご自分のお襷の脇に、ごく軽くお当てになりながら、私のほうを見て、深く頭を下げてくれました。
年齢はおそらく、もう七十代の半ばに近いでしょうか。
——そして、和裁師の和裁台の上には、まだ、ご仕立ての途中の、ふっくらと深い深い、ふんわりと爽やかな藍の地に、ふんわりと真っ白な朝顔のお花がふんわりと染め抜かれた、ふっくらと清らかな浴衣のお生地が、しずかに、しずかに、ふっくらと広げられていらしたのです。
そして、和裁師は、ご自分の右手で、ふっくらと、しなやかな、ふんわりと細い、ふっくらと小さな、銀色の運針の針を、両手の指先で、ふんわりとお持ちになっていらしたのです。
そして、その運針の針には——、ふっくらと、しなやかな、ふっくらと細い、ふんわりと白い、絹のひと筋のお糸が、ぴたりと、しっとりと通されていらしたのです。
声の音量は決して強くありませんでした。
むしろ、店内に漂う、ふっくらと、しっとりと清らかな、木綿と藍と糊と針の気配を、わずかにも乱さない、絶妙な響き。
私は、店内の中ほどに、ゆっくりと足を進めました。
そしてそこで、私は、息を、深く飲んだのです。
——壁ぎわの、磨き上げられた檜の長い棚の上に、整然と並べてお畳みになった、何着もの、ふっくらと、しなやかな、ふんわりとした浴衣。
工房の壁ぎわの、長い、長い、白木の棚の上には、それぞれ、まったく違うお柄の——、深い深い藍の地に、ふんわりと真っ白なお花のお柄の浴衣も、ふんわりと淡い、淡い水色の地に、ふっくらと深い藍のお縞のお柄の浴衣も、ふっくらと淡い、淡い生成りの地に、ふんわりと淡い、淡い藍のお絣のお柄の浴衣も、合計、二十数着——、ぴたりと、寸分違わぬ間隔で、ふっくらと、しなやかにお畳みになって、整然とお並びになっていらしたのです。
しかし驚くべきは——、その二十数着もの浴衣の、それぞれの、ふっくらと、しなやかなお畳みの、ふっくらと真ん中のいちばん上のところに——、ふっくらと、ふんわりとした「衿先」と呼ばれる、ふっくらと、しなやかな浴衣のいちばん上の三角形の角のさきが——、寸分のずれもなく、すべて、ぴたりと、まったく同じ水平の線の上に、お並びになっていらした、ということでした。
——ふっくらと真っ白なお花のお柄の浴衣の衿先も。
——ふっくらと淡い、淡い水色の地のお縞のお柄の浴衣の衿先も。
——ふっくらと淡い、淡い生成りの地のお絣のお柄の浴衣の衿先も。
それぞれの浴衣の、ご自分のお柄も、ご自分の地の色も、まったく違うのに——、その「衿先」の、ふっくらと、しなやかな三角形の角のさきは——、すべて、寸分のずれもなく、ぴたりと、まったく対等な、絶妙な、絶妙な水平の高さで、ふっくらと、しなやかにお揃いになっていらしたのです。
——どの浴衣も、決して、別の浴衣より、ご自分の衿先のお角度を、お際立たせようとなさることが、ない。
——どの浴衣も、決して、別の浴衣より、ご自分のお柄の華やかさを、お誇示なさることが、ない。
それぞれの浴衣は——、お互いに、対等な敬意で、ご自分の、ふっくらと、しなやかな衿先の絶妙な水平の高さを、しずかに、しずかにお保ちになりながら——、決して、別の浴衣の衿先に、お重なりになることは、なく——、ただ、しずかに、しずかに、ご自分の出番が、ふっと、ある一人の方の、ふと、ひと夏の祭りのひと袖目の中で、ふっと、お招きされる、その瞬間を、しずかに、しずかにお待ちになっていらしたのです。
——たった、浴衣の、ふと、衿先のさきの絶妙な水平の高さの中にも、規律が宿る。
これこそが、私の名づける「衿先の規律」でした。
そして、和裁師は、ご自分の和裁台の上の、いま、まさに、ご自分のお手のひらの中に、ふっくらと、しなやかに広がっていらした、ご仕立ての、ふっと、最後のひと針を残された、ふっくらと深い深い、ふんわりと爽やかな藍の地のお浴衣の——、ふっと、衿の、ふっくらと、しなやかなお折り目の、ちょうど、ふっくらと、ふんわりと、ぴたりと、寸分のずれもなく、お折りになっていらしたところの、ふっくらと、ふんわりとした角のさきに——、ご自分の右手の運針の針を、ふっと、しなやかに、ふんわりとお当てになっていらしたのです。
そして、和裁師は——、何度か、深く、しずかに、ご自分の呼吸を、お整えになっていらしたのです。
そして、ふっと、息を、お止めになりました。
そして、その瞬間。
和裁師は、ご自分の右手の運針の針を、ふっと、ふっくらと、しなやかに、寸分も急がず、ふんわりと——、ご自分の衿先のお角のさきの、ふっくらと、ふんわりと、ぴたりとお折り目を、お縫い止めになる、その、ふっくらと、ふんわりとした、たった、ふた目ほどのひと針を、ふっと、しなやかに、お運びになっていらしたのです。
——たった、ふっくらと、ふんわりと、ふた目ほどのひと針。
ふっと、ふんわりと、ふっくらと、しなやかな、ふっくらと細い銀色の運針の針が——、ふっくらと深い深い藍の地のお生地の、ふっと、衿先のお角のさきの、ふっくらと、ふんわりと、ぴたりとお折りになった内側のお折り目を——、しずかに、しずかに、ふっと、ふた目ほど、しなやかにお縫い止めになり——、
そして、その「ふた目ほどのひと針」が終わった、その瞬間——、和裁師は、ご自分の運針の針を、ふっと、お糸からお引き抜きになり、ご自分の和裁台の上の小さな針山に、ふっと、しずかに、お納めになり——、
そして、その「ひと針のお仕上げ」が終わった、その瞬間に——、その一着の浴衣の、ふっくらと、しなやかな衿先のお角のさきは、もう、たった今、ご自分のいちばん最初のお仕上げを——、ふっと、ぴたりと、お迎えになっていらした、ということを——、私は、確かに、お感じになることになったのです。
——お針を、ただ、お運びになっていらした、のでは、ありませんでした。
——お縫いを、ただ、お仕上げになっていらした、のでも、ありませんでした。
和裁師は、その、たった、ふっくらと、ふんわりと、ふた目ほどのひと針の中に——、これから、その一着の浴衣が、ある一人の方の、ご自分の、ふと、ひと夏の祭りの、ふと、いちばん最初のひと袖目に、ふっと、お招きされた、その瞬間に——、その方が、ご自分の、ふっと、ふっくらと、しなやかな浴衣のお袖の中に——、ふっと、ご自分の、ふっくらと、しなやかな腕を、ふんわりと、お通しになる——、ふっと、その「ひと夏の祭りの、ふと、いちばん最初のひと袖通しの、ふっくらと、しなやかなお対話のお時間」を——、確かに、ご自分の運針の針の、たった、ひと針のお仕上げの中に、お預けくださっていらしたのです。
——これが、「ひと夏の祭りに袖を通される方への礼節」でした。
毎日、何着もの浴衣を、ふっくらと、しなやかに、お仕立てになり続けていらっしゃる和裁師。
それは、彼にとって、もう、何万回と、くりかえしてきた、極めて日常的な所作のはずです。
しかし、その何万回目の所作を、まるで、初めての、たった一着の、たった一人のお客さまの、ご自分の、ふと、ひと夏の祭りの、ふと、いちばん最初のひと袖通しの、ふっくらと、しなやかなお対話のお時間のように——、その一着が、これから、ある一人の方の、ご自分の、ふっと、ひと夏のお祭りの、ふっと、夕立後の、ふっくらと爽やかな夕方の、ふっと、ご自分のお家の玄関先で、ふっと、ご自分のお胸の前で、ふっと、ふっくらと、しなやかに、ご自分の腕を、ふんわりとお通しになる——、その「ひと夏の祭りの、ふと、いちばん最初のひと袖通しの、ふっくらと、しなやかなお対話の場」を、確かに、思い描いた上で——、その「ひと夏の祭りの、ふと、いちばん最初のひと袖通しの、ふっくらと、しなやかなお対話の場を、ふっとお迎えくださる、お一人、お一人」への、深い、深い敬意を、無言のうちに、ご自分の運針の針の、たった、ふっくらと、ふんわりと、ふた目ほどのひと針の中に込めて、お縫いになる。
そして、私は、その瞬間、ようやく、はっきりと、分かったのでした。
——人の腕の中の、本当にたいせつな、ひと夏の祭りのひと袖通し。
それは、決して、お祭りの当日の、ふっと、賑やかな囃子のお音の中に、ふんわりとお歩きになるご自分のお姿の中にあるのでは、ない。
むしろ、お祭りの当日の、ふと、夕立後の、しっとりと爽やかな夕方の、ふと、ご自分のお家の玄関先で——、ふっと、ご自分の浴衣の、ふっくらと、しなやかな衿先のお角のさきを、ふっと、ご自分の両手で、ふんわりとお持ちになり——、ふっと、ふっくらと、しなやかなご自分のお腕を、ご自分の浴衣のひと袖目に、ふっと、しずかに、しずかにお通しになる、その「ひと夏の祭りの、ふと、いちばん最初のひと袖通しの、ふっくらと、しなやかなお対話のお時間」の中にこそ——、本当にたいせつな、ふっと、いちばん深いところからの、ひと夏のお祭りの始まりの、ふっくらとしたひと袖通しが、しずかに、しずかに、お宿りになっていらしたのです。
そして、その「ひと夏の祭りの、ふと、いちばん最初のひと袖通しの、ふっくらと、しなやかなお対話のお時間」のために——、誰かが、毎日、毎日、しずかに、しずかに、ご自分の運針の針の、ふっくらと、ふんわりと、ふた目ほどのひと針で、深い深い藍の地のお生地の、ふっと、衿先のお角のさきを、ふっと、絶妙なお折り目に、お縫いお止めくださっていた。
私は、その日、何も、お買い物を、いたしませんでした。
ただ、ただ、店の壁ぎわの、二十数着の浴衣の、それぞれの衿先のさきの、ぴたりと寸分のずれもない、絶妙な水平の高さと、和裁師の運針の針の、たった、ふっくらと、ふんわりと、ふた目ほどのひと針の、ふっくらと、しなやかなお動きを、目の中に、確かに、お預かりさせていただいただけで、十分でした。
そして、和裁師は、私のほうを見て、こう、低くおっしゃられたのです。
「浴衣というものは、お祭りのご当日の、賑やかな囃子のお音の中で、ふんわりとお歩きになるお姿のためのお衣装では、ございません。むしろ、お祭りのご当日の、夕立後の、しっとりと爽やかな夕方の、ふと、ご自分のお家の玄関先で、ふっと、ご自分のお腕を、ご自分の浴衣のひと袖目に、しずかにお通しになる、ふっと、そのいちばん最初のひと袖通しの、ふっくらとした、しずかなお対話のお時間のためのお相手でございます」
——「浴衣というものは、ふっと、ご自分のお家の玄関先で、ふっと、ご自分のお腕を、ご自分の浴衣のひと袖目に、しずかにお通しになる、ふっと、そのいちばん最初のひと袖通しの、ふっくらとした、しずかなお対話のお時間のためのお相手でございます」。
そのひとことの中に、和裁師は、ご自分の何十年もの、毎日、毎日のひと針のお仕上げの中に——、確かに、まだ、お会いになったこともない、ある一人の方の、ご自分の、ふっと、ひと夏の祭りの、ふと、いちばん最初のひと袖通しの、ふっくらと、しなやかなお対話のお時間を——、ふっと、ぴたりとお迎えくださっていらした、その「目には決して見えない、ひと夏の祭りの、ふと、いちばん最初のひと袖通しのお対話」を——、ふっと、私の前で、お明かしくださっていらしたのです。
私は、深く深く頭を下げ、引き戸を、ゆっくりと閉め直して、七月の、もう、すっかりと、しっとりと爽やかな夕方に染まり始めた、しずかな路地に、再び戻りました。
街路樹の若葉は——、まだ、夕立のひと滴、ひと滴を、葉の縁にお抱きになりながら、しっとりと爽やかな夕方の、ふんわりと白い遅い光を、ふんわりと身にまといながら、おだやかに揺れていらしたのです。
そして、まだ、私の鼻先には——、たった今、和裁師の運針の針から、しずかに、しずかにお流れになっていらした、ふっくらと真新しい木綿と、深い藍と、ふんわりと優しい糊の、しっとりと清らかな匂いが、しずかに、しずかにお流れになり続けていたのです。
——和裁屋とは、ただ、浴衣をお仕立てになる場所では、ない。
——和裁屋とは、ある一人の方の、ご自分のお家の玄関先で、ふっと、ご自分のお腕を、ご自分の浴衣のひと袖目に、しずかにお通しになる、ふっと、そのいちばん最初のひと袖通しの、ふっくらとした、しずかなお対話のお時間を——、確かに、ご自分の運針の針の、たった、ふた目ほどのひと針の中に込めて、しずかに、しずかにお預けくださる場所だったのです。
vibes は、目には見えません。
しかし vibes は、こうして、たった、ひと着の浴衣の、ふと、衿先のお角のさきの、ふっくらと、ふんわりと、ふた目ほどのお縫い目の中にすら、和裁師の何十年もの所作の重みと、もう、何百年もの間、ご自分の畑のいちばん広いところで、ふっくらと、しなやかにお育ちになっていらした木綿の繊維と、深い深い藍の染料の、ふっくらとした重みとが、ともに織り込まれ——、これから、ある一人の方の、ご自分のお家の玄関先で、ふっと、ご自分のお腕を、ご自分の浴衣のひと袖目に、しずかにお通しになる、ふっと、そのいちばん最初のひと袖通しの、ふっくらとした、しずかなお対話のお時間の中に、しずかに、しずかにお流れになり続けてゆくのでしょう。
——空気は、ある一人の方の、ご自分のお家の玄関先で、ふっと、ご自分のお腕を、ご自分の浴衣のひと袖目に、しずかにお通しになる、ふっと、そのいちばん最初のひと袖通しの、ふっくらとした、しずかなお対話のお時間の中にすら、まったくお会いになったこともない、ある一人の和裁師の、ふと、運針の針の、たった、ふた目ほどのひと針のお仕上げの中に、何十年もの所作の重みを、しずかに、しずかにお預けしてしまう。
それこそが、看板にも、値札にも、決して書かれることのない、町外れの老舗の和裁屋という店の、最も深い、最も静かな「透明な資産」だったのだ——。
私は、まだ、私の鼻先に、しずかに、しずかにお流れになり続けている、ふっくらと真新しい木綿と、深い藍と、ふんわりと優しい糊の、しっとりと清らかな匂いとともに、七月の、もう、しっとりと爽やかな夕立上がりの夕方の中の、しずかな路地の中で、ようやく気づいたのです。
——勝田耕司












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