透明資産を見つけよう

【透明資産を見つけよう】六月の雨の午後、町の老舗の茶屋。お盆に並ぶ「一服の規律」と、急須を傾ける所作という名の「雨やどりの方への礼節」

六月のある火曜日の午後、午後二時十五分のこと。

——その日の朝までは、雲ひとつ、見当たらなかった、六月の青空が、お昼の頃から、ふっと、ふっと、低い灰色の雲に、お包まれはじめていたのでした。

そして、午後二時を、少し回った、ちょうどそのとき。

ふいに、街の道路の上に、ぽつ、ぽつ、と、最初のひと滴、ふた滴の、六月の雨が、お落ちはじめた、その瞬間。

私は、その日の午後のアポイントまでの、ぽっかりと空いた、一時間ほどの時間を抱えながら、いつもの大通りから、ひと本だけ路地のほうへと外れた、古い住宅街の一角を、ちょうど、ゆっくりと、歩いていたところでした。

——梅雨入り。

私の上着の中には、その朝、まだ、青空を見上げて出かけたままの、傘の用意は、ありませんでした。

ぽつ、ぽつ、と落ち始めた雨は、ほんの数十秒のうちに、ざあ、と、しっかりとした音を立て、街の路地の石畳と、街路樹の若葉の上で、しずかに、しずかに、はじけはじめたのです。

——そして、ちょうど、私の目の前の、細い路地のいちばん奥のあたり。

その雨の音の中に——、ふっと、しずかに、しずかに、ある、あたたかな、淡い藁色の灯が、磨き込まれた木の格子戸のすき間から、ふんわりと、お招きするかのように、こぼれていたのです。

——あの、あたたかな灯の先に、どんな店があるのだろう。

私はそう思い、ぽつぽつと打ちはじめた雨の中を、その路地のいちばん奥へと、ゆっくりと、足を向けたのです。

そして、その、藁色の灯の前で——、私は、ある一軒の、小さなお店の前に、立っていたのです。

——茶屋。

商店街の路地の、ちょうどいちばん奥のあたり。

磨き込まれた木の格子戸の上には、深い渋い、お抹茶の濃い緑のような地に、白く「お茶」とたった二文字、染め抜かれた、年代物の暖簾が、六月の、しっとりとした、雨を含んだ風に、ふんわりと揺れていました。

開業から、優に九十年は、超えているのでしょう。

私は格子戸の取手にそっと手をかけました。

格子戸が、長年使い込まれた木の、低く澄んだ音を立てて、ゆっくりと横へ滑った瞬間。

私を包み込んだのは、六月の路地の、もう、本降りに近づきはじめた雨の、しっとりとした、青い、土の匂いとは、まったく種類の違う、深く、しっとりと、しかし、決して重くはない、ある——磨き上げられた木の床と、何十枚もの畳の、ほのかに乾いた、しっとりとした、井草の匂いと、奥の小さな茶釜の上から、しずかに、しずかに、立ち上る、湯気の、ふっくらと、まろやかな匂いと、そして、長年、何百、何千の方々の、それぞれの、お一人、お一人の、ある一日の、ふと、雨やどりや、ふと、お疲れの、お一服のために、ご自分のお盆と、ご自分のひと碗とを、丁寧にお預かりされ続けてきた、その「お一服の場」そのものの、芳醇で、しっとりと落ち着いた、玉露の、ほのかに甘く、ほのかに渋く、しずかに澄んだ気配とが、ひとつに溶け合った、深く、しかし、極めて、慎ましい、ひとつの空気の厚みでした。

そこに漂っていたものは、もはや、ただの「茶屋の匂い」では、ありませんでした。

それは、何百、何千の方々の、それぞれの、お一日の、ふと、雨やどりや、ふと、お疲れや、ふと、深いお考えごとの最中に——、たった、一服の玉露と、たった、ひと粒のお干菓子とのために、この茶屋の中で、ご自分のお盆を、お預けされ続けてきた、その「無数の、お一服との出会い」そのものの気配だったのです。

そこには、ある一人の方の、その日の、まだ、まったく、お会いになったこともない、ふと、雨に足を止めた、その瞬間を——、確かに、おだやかに、お受け止めくださるための、極めて謙虚で、しかし揺るぎない「規律」が、確かに、お盆と、ひと碗と、急須との中に、息づいていたのです。

「いらっしゃいませ。雨に、お見舞われましたでしょう。どうぞ、ごゆっくりと」

店の奥の、磨き上げられた檜のカウンターの内側で、薄い灰色の和服に、深い渋緑色の前掛けを締めた、白髪のご高齢のお女将が、両手の指先を、ご自分の白い布巾で、ごく軽くお拭きになりながら、私のほうを見て、深く頭を下げてくださいました。

年齢はおそらく、もう七十代に近いでしょうか。

声の音量は決して強くありませんでした。

むしろ、店内に漂う、深くしっとりと落ち着いた、玉露と井草と檜の気配を、わずかにも乱さない、絶妙な響き。

——「雨に、お見舞われましたでしょう」。

そのひとことの中には、お女将は、たった今、私が、雨やどりのために、ふと、足を止めた、その「予定にはなかった瞬間」そのものを——、決して、お見過ごしになることなく、まっすぐに、深くお受け止めくださっていたのです。

「お一服、玉露を、いかがでございますか」

そして、お女将は、低く、おだやかにおっしゃられました。

「私からも、お願いいたします」と、私は深く頭を下げました。

そして、お女将は、しずかに、しずかに、店の奥の小さな茶釜のほうへと、和服の裾を、ふんわりとゆらしながら、お向かいになっていらしたのです。

私は、店の真ん中の、小さな丸い座卓の前の、深い渋色の座布団の上に、しずかに、お腰を下ろしました。

そして、ふと、店の中をゆっくりと見渡し、私は、息を、深く飲んだのです。

——店の壁ぎわの、磨き上げられた檜の棚の上に、整然と並べられた、何十枚もの、丸い、漆塗りの、深い、深い藍色のお盆。

棚の上には、丸い、漆塗りの、深い藍色のお盆だけが、合計、二十数枚ほど、ぴたりと、寸分違わぬ間隔で、整然と立てかけられていました。

そして、そのそれぞれのお盆の上には——、まだ、お客さまをお迎えになる、その瞬間を待つばかりの、ある「ひと組のお道具」が、ぴたりと、ぴたりと、お並びになっていたのです。

そのひと組とは——、ちょうど、お盆の中央のすぐ右に、深い渋緑色の小さな急須が、ひとつ。

そのすぐ左に、白磁の、ふっくらとした小さな湯呑みが、ひとつ。

そのすぐ手前に、白いお和紙に包まれた、ひと粒のお干菓子が、ひとつ。

そして、お盆のいちばん奥には——、まだ、お客さまに、お渡しになる、その瞬間にだけ、しずかに、お注がれることになる、ほんの数滴ほどの、お湯を冷ます小さな白磁の湯冷ましが、ひとつ。

その四つのお道具が、二十数枚のお盆の、すべての上で——、寸分違わぬ位置に、寸分違わぬ角度で、ぴたりと、ぴたりと、お並びになっていたのです。

——どのお盆の急須も、ぴたりと、お盆の中央のすぐ右に。
——どのお盆の湯呑みも、ぴたりと、急須のすぐ左に。
——どのお盆の湯冷ましも、ぴたりと、お盆のいちばん奥に。
——どのお盆のお干菓子も、ぴたりと、お盆の手前のいちばん中央に。

——どのひと組も、まったく、お一人のお客さまの、お一服のために、お整えになる、その「最初のひと組」のままで、しずかに、しずかに、お待ちになっていらしたのです。

——たった、お盆の上の、急須と湯呑みの位置の中にも、規律が宿る。

これこそが、私の名づける「一服の規律」でした。

そして、お女将は、店の奥の茶釜のほうから、深い藍色のお盆を、ご自分の両手で、低く、お運びになっていらしたのです。

そのお盆の上には——、たった今、棚の上に立てかけられていた、二十数枚のお盆の、ちょうど、いちばん端の、ある「ひと組」の、まったく同じ位置の、深い渋緑色の小さな急須と、白磁の湯呑みと、白磁の湯冷ましと、お和紙に包まれたひと粒のお干菓子とが、ぴたりと、おだやかに、ご移動になっていらしたのです。

そして、お女将は、その深い藍色のお盆を、私の前の、小さな丸い座卓の上に、両手で、低く、しずかに、しずかに、横たえてくださいました。

そして、お女将は、まず、ご自分の左手で、白磁の湯冷ましを、両手の指先で、おだやかにお持ちになりました。

そして、いったん、その湯冷ましの中に——、お茶釜のすぐ脇の、白磁の、ひと回り大きな急須から、ぐらぐらと沸かしすぎてはいない、ふっくらと落ち着いた、お湯を、ふんわりと、しずかに、お注ぎになりました。

そして、その湯冷ましの中で、ほんの数十秒ほど、お湯の温度を、ふっと、お下げになっていらしたのです。

——お湯を、急須に、ただ、ふっと、お注ぎになった、のでは、ありませんでした。

玉露の、いちばん深いところの、いちばん澄みきった甘みを、引き出すための「ちょうどよい、お湯の温度」を——、ご自分の指先の、湯冷ましの白磁の表面の温度の中で、しずかに、しずかに、お計りになっていらしたのです。

そして、お女将は、湯冷ましの中の、ちょうどよい温度になったお湯を、こんどは、深い渋緑色の小さな急須の中へと、ふっと、しずかにお注ぎになっていらしたのです。

そして、お女将は——、何度か、深く、しずかに、ご自分の呼吸を、お整えになっていらしたのです。

そして、ふっと、息を、お止めになりました。

そして、その瞬間。

お女将は、ご自分の右手の指先で、その深い渋緑色の急須を、寸分も急がず、ふんわりと、ご自分の白磁の湯呑みのいちばん中央のすぐ上へと、お傾けになっていらしたのです。

——急須から、湯呑みへ。

その、急須の口から、湯呑みの底へと——、ほんの三十センチほどの落差の中を、深い、深い、ほのかに金色がかった澄みきった一杯の玉露の流れが、寸分のずれもなく、ぴたりと、湯呑みの中央の、もっとも深いところに、ふんわりと、お注がれていったのです。

——湯呑みのふちには、ひと滴も、こぼれない。
——湯呑みの外側には、ひと滴も、つたわらない。

ただ、湯呑みの、いちばん中央のいちばん深いところに——、ふっくらと、ふんわりと、深い金色がかったひと服の玉露が、しずかに、しずかに、お溜まりになっていったのです。

——急須を、ただ、お傾けになった、のでは、ありませんでした。
——お茶を、ただ、お注ぎになった、のでも、ありませんでした。

お女将は、その急須を、ふんわりとお傾けになる、その指先の中で——、いま、まさに、雨の中をふと、足を止めた、ある一人のお客さまの、その「ふと、ご自分の予定からはみ出した、ひと息のお時間」を——、確かに、ご自分のひと滴、ひと滴のお湯の落差の中に、お預けくださっていらしたのです。

——これが、「雨やどりの方への礼節」でした。

毎日、何十服もの玉露を、お注ぎになっていらっしゃるお女将。

それは、彼女にとって、もう、何万回と、くりかえしてきた、極めて日常的な所作のはずです。

しかし、その何万回目の所作を、まるで、初めての、たった一服の、たった一人のお客さまの、ふと、雨に足を止めた、その「予定にはなかった瞬間」のように——、その一服が、これから、その一人の方の、ほんの十数分の、雨やどりのお時間の中に、しずかに、しずかに、流れてゆくのかを、確かに、思い描いた上で——、その「ふと、雨に足を止めた、お一人、お一人」への、深い、深い敬意を、無言のうちに、急須の、たった、ひと傾けの、ふっくらとした落差の中に込めて、お注ぎになる。

そして、私は、その瞬間、ようやく、はっきりと、分かったのでした。

——人の一日の中の、いちばん、たいせつな瞬間。

それは、決して、あらかじめ、ご予定の中に、しっかりと組み込まれた、いちばん大きな会議の時間の中だけにあるのでは、ありません。

むしろ、ふと、予定からはみ出した、たった、十数分の、ふと、足を止めた、その「予定外の、ささやかな雨やどり」の中にこそ——、ご自分の一日の、いちばん深い、いちばん大切な「ひと息」を、しずかに、しずかに、お預けくださる場が、確かに、用意されていらしたのです。

そして、その「予定外の、ふと、足を止めた、ささやかな雨やどり」のために——、誰かが、毎日、毎日、しずかに、しずかに、ご自分の急須の指先の中に、何十年もの所作の重みを、お預けくださっていた。

私は、お女将の、その急須のひと傾けの、ふっくらとした落差の中に注ぎ込まれた、深い金色がかった一服の玉露を、両手で、低く、ご自分のお盆から、お取り上げになりました。

そして、まず、湯呑みのふちのちょうど真ん中のところに、ご自分の唇を、しずかに、しずかに、お当てになり——、その、ふっくらとした、しかし、深い、深い甘みと、ほのかな、しかし、確かな渋みとが、ぴたりと寄り添った、ひと口の玉露を、ゆっくりと、口の中に運びました。

——その瞬間、私は、息を、深く飲みました。

その、ふっくらと、しっとりとした、深い金色がかったひと口の中には——、いま、まさに、お女将の指先の、たった、ひと傾けの中に、確かに、お預けされていた、ある一人の方の何十年もの所作の重みが、しずかに、しずかにお流れになり続けていたのです。

そして、店の外の、もう、すっかりと、本降りになった、六月の梅雨入りの、しずかな、しずかな雨音が、店の障子戸を、ふっくらと、おだやかに、お包み込みになり始めていたのです。

——茶屋とは、ただ、お茶を、お注ぎくださる場所では、ない。
——茶屋とは、ある一人の方の、その日の、ふと、予定からはみ出した、たった、十数分の、ささやかな「ひと息のお時間」を——、ご自分の指先の、たった、急須のひと傾けの落差の中に込めて、お預けくださる場所だったのです。

vibes は、目には見えません。

しかし vibes は、こうして、たった一杯の、ふっくらとした、金色がかった玉露のひと口の中にすら、お女将の何十年もの、急須のひと傾けの所作の重みとともに、確かに織り込まれ——、これから、ある一人の方の、ふと足を止めた、ささやかなお時間の中に、しずかに、しずかにお流れになり続けてゆくのでしょう。

——空気は、ある一人の方の、ふと、予定からはみ出した、たった十数分の中にすら、ある一人の方の、急須のひと傾けの、何十年もの所作の重みを、しずかに、しずかにお預けしてしまう。

それこそが、看板にも、値札にも、決して書かれることのない、町の老舗の茶屋という店の、最も深い、最も静かな「透明な資産」だったのだ——。

私は、まだ、口の中に、しずかに、しずかにお残りになり続けている、深い金色がかったひと口の玉露の余韻と、店の障子戸の外の、もう、すっかりと、本降りになった、六月の梅雨入りの、しずかな、しずかな雨音とを、ご一緒にお抱きしながら、六月の梅雨入りの午後の、初夏というよりも、もう、しっとりと、夏のはじまりの気配を、確かに含み始めた、雨の路地の中で、ようやく気づいたのです。

——勝田耕司

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