透明資産を見つけよう

【透明資産を見つけよう】五月の早朝、町外れの老舗の八百屋。木箱に並ぶ「畑のままの規律」と、ひと束のほうれん草の葉先を整える所作という名の「土を耕した手への礼節」

五月の下旬のある木曜日の早朝、午前六時半のこと。

初夏のいちばん早い朝の光が、街路樹の若葉を、まだ、しずかに、しずかに、白く明るませはじめたばかりの、ちょうどその時刻。

私は、その日のアポイントまでの、ぽっかりと空いた二時間ほどの朝の時間を抱えながら、いつもの大通りから二本だけ路地のほうへと外れた、古い住宅街の一角を、ゆっくりと歩いていました。

——その早朝、私が、いつもとは違う路地のほうへと、ふと、足を向けようと思い立ったのには、特に、はっきりとした理由はありませんでした。

ただ、その朝の、いつもよりも早く目を覚ましたことの中に——、少しだけ、いつもと違う朝の道を、ご自分の足で、歩いてみたいような、何か、ほんのささやかな、しかし、確かな、ひと押しのような気持ちが、あったというだけのこと。

そして、いくつかの路地を曲がった、その先で——、私は、ある一軒の、小さな店の前で、ふと、足を止めていたのです。

商店街の路地の、ちょうど真ん中あたり。

その小さなお店の、磨き込まれた木の重い引き戸は、たった今、ご店主のお手のひらで、ゆっくりと、横へお引きあげになり、初夏の早朝のひんやりとした空気の中に、店の中の、深い、奥行きの闇が、ふっと、お顔を出しはじめたところでした。

そして、ご店主は、お店の中から、両手で、低く、ある木の浅い箱を、ひとつ、ふたつと、外の歩道のすぐ脇へと、ゆっくりと、おだやかにお運びになっていらしたのです。

——その木箱の中には、まだ、土がしっとりと湿った様子で残っている、いくつもの、深い緑の葉と、しっとりとした桃色の根とが、ふんわりと覗いていました。

——八百屋。

私はしばらく、その路地の端から、ただ、ご店主のお手のひらが、ひと箱、ひと箱と、その木箱を、整然と、お並べになっていく、その所作を、見つめていました。

そして、私が、ふと、お店の中へと、足を向けはじめた、ちょうどそのとき。

ご店主は、私のほうを見て、深く頭を下げてくださったのです。

「いらっしゃいませ。まだ、お並べの途中ですが、どうぞ、ごゆっくり」

磨き込まれた木の引き戸の上には、深い藍色の地に、白く「八百」とたった一文字、染め抜かれた、年代物の暖簾が、たった今、ふんわりとお開けになったばかりで、ほんのわずかに、初夏の早朝の風に、ふわりと揺れていました。

開業から、優に九十年は、超えているのでしょう。

私を包み込んだのは、初夏の早朝の路地の、ひんやりとした、まだ若い葉の薫りとは、まったく種類の違う、深く、しっとりと、しかし、決して重くはない、ある——その日の早朝、まだ、産地の、暗いうちから、農家の方の手で、ふんわりと束ねられたばかりの、ほうれん草、小松菜、絹さや、新玉ねぎ、新じゃが——、それぞれの、まだ、夜の冷気と、田畑の朝露を、しっとりと身にまとった、新鮮な土の匂いと、緑の葉の青い香りと、根の、ほのかに甘い土の香りと、そして、長年、何百、何千の畑の朝の土が、ご店主の手のひらの中で、ひと束、ひと束とお運びされ続けてきた、その「畑と食卓のあいだの場」そのものの、芳醇で、しっとりと落ち着いた、土と緑の気配とが、ひとつに溶け合った、深く、しかし、極めて清らかな、ひとつの空気の厚みでした。

そこに漂っていたものは、もはや、ただの「八百屋の匂い」では、ありませんでした。

それは、何百、何千の畑の、まだ、夜が、明けきらないうちから、ご自分の畑に出て、ご自分の指先で、ほうれん草の根元を、ひと束、ひと束と、お切りになっていらした、無数の農家の方々の、その「夜明け前のお手」そのものが、この店の中の木箱の中まで、ふんわりとお運びされ続けてきた、その「無数の、土を耕した手との出会い」そのものの気配だったのです。

そこには、ある一人の方の、ご自分のその日の、ご家族の食卓のために、ひと束のお野菜を、お選びになるその瞬間に、確かに、その背後で、しずかに、しずかに、土を耕してこられた、見えない無数の手の重みを、ご一緒に、お預けするための、極めて謙虚で、しかし揺るぎない「規律」が、確かに、木箱の、ひと束、ひと束の根の土の中に、息づいていたのです。

ご店主は、店の中央の、磨き上げられた檜の長い作業台の前で、両手の指先を、ご自分の白い布巾で、ごく軽くお拭きになりながら、ふたたび、私のほうを見て、深く頭を下げてくれました。

年齢はおそらく、もう七十代に近いでしょうか。

ご店主の両手は、決して、白くはありませんでした。

長年、毎朝、毎朝、ひと束、ひと束のお野菜の、まだ畑の土を、しっとりと身にまとった根を、両手のひらで、ふんわりと、お整えになり続けてきた、その手のひらは——、もう、深い、深い、土の色の、しずかな、しずかな茶色に、しっとりと、染め上げられていらしたのです。

声の音量は決して強くありませんでした。

むしろ、店内に漂う、深く落ち着いた土と緑の気配を、わずかにも乱さない、絶妙な響き。

私は店内の中ほどに、ゆっくりと足を進めました。

そしてそこで、私は、息を、深く飲んだのです。

——店の中央の、磨き上げられた檜の長い土間の上に、整然と並べられた、何十もの、浅い、長方形の木箱。

その木箱は、ひとつ、ひとつ、ぴたりと、寸分違わぬ間隔で、土間の上に並べられていました。

そして、それぞれの木箱の中には、別々のお野菜が、ひと種類ずつ、横たわっていたのです。

——ほうれん草の木箱。
——小松菜の木箱。
——絹さやの木箱。
——新玉ねぎの木箱。
——新じゃがいもの木箱。
——アスパラの木箱。
——ふきの木箱。
——いちばん奥には、まだ、ほんのり、淡い緑の梅の実の木箱——。

私は、その木箱たちを、ゆっくりと、目で追っていきました。

そして、ある、はっとする事実に気がついたのです。

——どのお野菜の、ひと束、ひと束の中にも、葉の先から、根の先まで、ぴたりと、つながったままで、お並びになっていた。

スーパーマーケットのお野菜は、たいてい、葉先が、はさみで、ぱつんと、お切りになっています。
根の白いところも、ばっさりと、お削ぎになっています。
そして、根の土も、すっかりと、お洗いになり、ピカピカに、お整えになっています。

しかし、この店の、ひと束、ひと束のお野菜には——、葉の先のいちばん上から、根の先のいちばん下まで、その、ひと本、ひと本のお野菜の、まるごとのお姿が、ぴたりと保たれていたのです。

そして、根のところには、まだ、その日の夜明け前の、産地の畑の土が、しっとりとお残しになっていたのです。

——お野菜の、葉も、根も、決して、はさみでお切りにならない。
——根の土も、決して、すっかりとはお洗いにならない。

ただ、今朝、夜明け前の、産地の畑の畝の中から、ふと、お抜きになり、ふんわりと、お束ねになっただけの、その「畑のまま」のお姿で——、この店の中の木箱の中に、お並びになっていたのです。

そして、それぞれの木箱の、いちばん手前の縁の小さな和紙の札に、「ほうれん草、千葉、田中農園」「絹さや、栃木、中村農園」と、ご店主の墨書きで、しずかに記された、その小さな数文字が——、ご店主の、何十年もの、まったく見ず知らずの農家の方々への、深いお信頼を、確かに、お伝えしていらしたのです。

——たった、ひと束のお野菜の、葉と根の、ぴたりとつながった、ひと姿の中にも、規律が宿る。

これこそが、私の名づける「畑のままの規律」でした。

そして、ご店主は、その日の朝、まだ、最後の木箱の、ひと束のほうれん草を、お並べの途中で、いらっしゃいました。

——ご店主は、その、ひと束のほうれん草を、決して、根元のところを、つまんでお持ち上げになることはありませんでした。

ご店主は、その、ひと束のほうれん草を——、両手のひらで、まるで、生まれたばかりの幼な子の、まだ、しわひとつ知らない頭を、両手で、おだやかに、お支えになるかのように——、ふっくらと、ふんわりと、両手の中に、お受け止めになっていらしたのです。

そして、ご自分の両手のひらの中で、その、ひと束のほうれん草の、根元のところと、葉の先のところを、ほんの少しだけ、おだやかに整え——、葉先の、ほんの一枚だけ、わずかに反対の方向を向いていた葉を、ご自分の指先で、ふっと、すべての葉と、同じ方向に、寄り添わせ直しました。

——葉を、ただ、ご整形になっていらした、のでは、ありませんでした。
——お野菜を、ただ、お並べになっていらした、のでも、ありませんでした。

ご店主は、そのひと束のほうれん草の、葉先の、ほんの一枚を、整え直すその指先の中で——、たった今、まだ、夜が、明けきらないうちから、ご自分の千葉の畑で、ご自分の手で、そのほうれん草を、お切りになり、ふんわりと、お束ねになり、お運びくださった、見えない、ある一人の農家の方の、その「夜明け前のお手の動き」を——、ご自分の指先の中で、もう一度、しずかに、しずかに、お引き継ぎになっていらしたのです。

そして、その葉先の整え直しの後、ご店主は、その、ひと束のほうれん草を、両手で、低く、ご自分の木箱の中の、ちょうど、いちばん端の、まだ空いている場所に、ふんわりと横たえました。

——これが、「土を耕した手への礼節」でした。

毎日、毎朝、何百、何千のひと束のお野菜を、お並べになっていらっしゃるご店主。

それは、彼にとって、もう、何十万回と、くりかえしてきた、極めて日常的な所作のはずです。

しかし、その何十万回目の所作を、まるで、初めての、たった一束のほうれん草のように——、その一束が、いったい、どこの畑の、どの農家の方の、まだ、お会いになったこともない手の動きの中で、ふんわりとお束ねになったのかを、確かに、思い描いた上で——、その「見えない、夜明け前のお手」への、深い、深い敬意を、無言のうちに、葉先の、ほんの一枚の整え直しの中に込めて、お並べになる。

そして、私は、その瞬間、ようやく、はっきりと、分かったのでした。

——私たちが、毎日、毎日、当たり前のように口にしているお野菜のひと口、ひと口の中には——、目には、決して見えない、無数の、夜明け前の畑の、農家の方々の、しずかな、しずかなお手の動きが、確かに、お流れになり続けていたのです。

そして、その「目には見えない、無数の夜明け前の手」を、確かに、街の食卓まで、ふんわりとお運びくださっていたのは——、まさに、こうした、町の小さな八百屋の、磨き上げられた檜の作業台の上の、ご店主の指先の、たった、ひと整えの所作だったのです。

それは、決して、新聞にも、テレビにも、書かれることのない、もっとも、しずかな、しかし、もっとも、確かな、人と人との支え合いの、見えない柱だったのです。

私は、ご店主から、絹さやの、ひと束と、ほうれん草の、ひと束を、お選びさせていただきました。

ご店主は、その二束を、薄い、新聞紙のような紙で、ふんわりとお包みになり、その上から、藁の紐で、ふっくらとお結びくださいました。

そして、私の両手のひらに、その小さな包みを、低く、お渡しくださいました。

「絹さやは、塩で、さっと、お茹でになって、ごま油を、ひとたらしで。ほうれん草は、おひたしで、お醤油を、ほんの数滴。今朝の千葉と栃木の、それぞれの畑の朝の味を、お楽しみくださいませ」

——「お買い上げ、ありがとうございます」では、ありませんでした。
——「またのご来店を」でも、ありませんでした。

「今朝の千葉と栃木の、それぞれの畑の朝の味を、お楽しみくださいませ」——。

そのひとことの中に、ご店主は、まだ、お会いになったこともない、千葉の田中さんと、栃木の中村さんの、それぞれの畑の、夜明け前のお手の動きを——、確かに、私の食卓まで、お運びくださっていらしたのです。

私は、深く深く頭を下げ、五月の下旬の、もう、すっかり明るくなった、初夏の早朝の路地に、再び戻りました。

街路樹の若葉は、その朝の光の中で、一枚、一枚、すきとおるように、明るく揺れていました。

そして、私の両手のひらの中の、薄い新聞紙の包みの中には——、たった今、千葉の田中農園のほうれん草と、栃木の中村農園の絹さやが、まだ、夜明け前の、それぞれの畑の朝露の、ひんやりとした重みを、確かに、抱きしめながら、しずかに、横たわっていたのです。

——八百屋とは、ただ、お野菜を、お渡しになる場所では、ない。
——八百屋とは、街の食卓と、まだ夜の明けきらない無数の畑とのあいだの、いちばん深い、しずかな橋を、毎朝、毎朝、ご自分の両手のひらの中の、たった、ひと束の整え直しの中に込めて、お渡しくださる場所だったのです。

vibes は、目には見えません。

しかし vibes は、こうして、たった、ひと束のほうれん草の、葉先の、ほんの一枚の整え直しの中にすら、まだ、お会いになったこともない千葉の田中さんの、夜明け前のお手の動きと、ご店主の何十年もの所作の重みとが、ともに織り込まれ——、これから、ある一人の方の、その日の夜の食卓の上に、しずかに、しずかにお流れになり続けてゆくのでしょう。

——空気は、街の食卓と、まだ夜の明けきらない畑とのあいだの、目には見えない、無数の手の動きを、たった、ひと束のお野菜の中に、しずかに、しずかにお預けしてしまう。

それこそが、看板にも、値札にも、決して書かれることのない、町外れの老舗の八百屋という店の、最も深い、最も静かな「透明な資産」だったのだ——。

私は、両手のひらの中の、初夏の早朝の、千葉と栃木の、それぞれの畑の朝露の、ひんやりとした重みを、しっかりとお抱きしながら、五月の下旬の、もうすぐ夏の気配を含み始めた、初夏の早朝の路地の中で、ようやく気づいたのです。

——勝田耕司

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